社員全員にニックネーム

井手は週の半分は佐久市にいて、残りは東京で商談をしたり、イベントに出席したりしている。そして、佐久市にいても、醸造所の現場に毎日、顔を見せるわけではない。

「現場には1日に1回は行ってないですね。それでも、みんなのことはよくわかってますよ。スタッフだけでなく、その家族のこともよく知ってます。うちはみんな社長とかリーダーとは呼ばないんですよ。全員、ニックネームが付いてますから、それで呼んでます」

これは井手が社員をニックネームで呼ぶだけではない。社員は井手を「てんちょ」と呼ぶ。醸造リーダーの森田は「モーリー」、広報の原謙太郎は「ハラケン」と呼ばれている。みんな、いいおっさんだけれど、「てんちょ」で「モーリー」で「ハラケン」なのである。ニックネームで呼び合うから、一般の会社よりも雰囲気はフレンドリーだ。

スタッフが「井の中の蛙」にならないように

井手は「僕がつねに気にしているのは設備よりスタッフです」と強調する。

「クラフトビールの最大手の我々でも、多くが手作業なんです。人が介在する部分がすごく多い。みんなの状態とか、現場で問題が起きてないかっていうのは、スタッフの様子を見たり、話をしなきゃわからない。醸造所のスタッフのお子さんが入っている部活まで知ってます。設備を担当しているフルちゃんっていうスタッフはお子さんが野球をやっていて、試合の結果のことも聞いたりしますから……。それくらい現場のスタッフのことをわかっていれば、大変な事態が起こるまでトップは何も知らなかった、ということにはなりません。人を知ることが現場を掌握することだと思っています。

僕が製造現場のスタッフに言うことはひとつだけ。『世界を見てください。もっと広い目で見てください』って。製造現場は閉鎖空間だから、どうしても内向きになっちゃう。内向きになっちゃうと、自分たちだけがおいしいと思うビールが出たりする。だから、まずはお客さんを見てくれ、と。おいしいかおいしくないかはお客さんが決めることです。

また、他社を見たり、アメリカのブルワリーに見学に行ったりすると、ぜんぜん違う情報がいっぱい入ってきて勉強になるんです。『ほかはこんなふうにやってるんだな』っていう学びがある。スタッフには井の中の蛙にならず、ちゃんとお客さんと対面で接する機会も定期的にとってほしいと思います。ですから、人事異動で生産の現場から営業へといったこともするんです。もっと外に出て行って、視野を広げて、いろんなことを吸収してビールづくりに反映しようって、それだけは言ってます」

ヤッホーは大手が独占しているマーケットに挑戦するベンチャー企業だ。資金と機械設備では太刀打ちできない。彼らが大手に対抗するにはクリエーティブな力を上げていくしかない。井手が取った交流人事と広い視野を持つことはヤッホーにとってなくすことのできない施策であり、それが彼らの現場の力だ。

野地秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒、出版社勤務などを経て現職。人物ルポ、ビジネス、食など幅広い分野で活躍中。近著に、7年に及ぶ単独取材を行った『トヨタ物語』(日経BP社)がある。
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