若き恋敵を転落させる作戦を敢行するが……
そして、ここで孫子のルール、その五の出番だ。「智者の慮は必ず利害を雑う」。あらゆる事柄には利益となる面と害となる面がある。ゆえに相手に実行を思い留まらせたい時はその害となる面を強調し、逆に実行させたい時は利益となる面を強調するのだ。
僕がすべきことはもちろん、結婚生活の害を高音さんに強調することだ。「数年もすれば粗大ゴミ」「太るしハゲる」「男はまず100%浮気する」など、僕の実体験を元に結婚生活の艱難辛苦を針小棒大に言い募り、「その場の雰囲気に流されたりせず、結婚は慎重に慎重を期して、プロポーズも最低3度は断るべき」「諸葛亮孔明という偉人も3度断ったことで有名」と結んでおいた。よし、これでしばらく結婚は思い留まるだろう。
――そして、翌日。社内はある噂で持ちきりとなっていた。そう、伊集院の浮気疑惑だ。営業部の女の子と二股しているという疑惑が、女子社員の間ですっかり広まっていた。言うまでもなく、これも僕が仕込んだことだ。昨日、清掃のおばちゃんたちにこの噂を吹き込んでおいたのだ。女子社員にはトイレの中で情報交換を行う習性があるので、掃除中のおばちゃんたちの噂話を経由して、この話は瞬く間に社内に広まった。間諜による情報操作ももちろん孫子の教えだ。
「昨日、お店に来なかったのもひょっとして……」
暗く沈んだ顔の高音さんは、きっとこんなことを考えて疑心暗鬼に陥ったことだろう。しめしめ。2人が破局すれば、後は僕が……ウヒヒ、孫子ありがとう!
……だが、2人に破局は訪れなかった。
伊集院は気合の徹夜作業によりプレゼン資料を作り直してプロジェクトを成功させたし、高音さんとの仲も激しいケンカの末にドラマチックな和解を見たようだ。社内での浮気疑惑もいつの間にか消えてなくなり、なんだか2人は以前よりも仲睦まじく、周囲の女子社員たちも歓迎ムードを露わにしている……。
まずい。これはまずいぞ。
伊集院のアホは「その節はお店をご紹介頂き……」などとバカ真面目に感謝の意を伝えに来るし、高音さんの僕の評価もすっかり「親切な上司」で固定され始めている。この「親切な上司」というのは、「良い友達」と同じで、決して恋愛対象には入らないアレだ。まずすぎる。
一体どうすればいいのか。僕は孫子を読み返した。そして、次の一節に出会ったのである。孫子のルール、その六。「兵は拙速を聞くも、未だ巧久をみざるなり」。
戦争というものは続けているだけで一国の経済力を損ない続けるものだ。だから、多少まずい点があっても迅速に切り上げるべきであって、完璧を期して長引かせるなどは愚の骨頂である。