評論を読むことで、本編を見たくなる

――なるほど。虚構の世界に退避する。

まあ、僕のオタクとしてのダメなところが発揮された言い方をすると、見てほしいんですよね(笑)。本の中では富野由悠季の昔の作品をいくつか論じています。昔のアニメーションなので、作りの雑な回もある。「苦行」のような回もあるから、とても全部見ろとは言えない。ただ気になったものだけでもいいから、ちょっと見てほしいなと思うわけですよね。

――それによって得られるものがある、と。

目に見えない虚構の世界に退避することで、人は初めて問題設定をすることができると僕は思うんですよ。それはなぜかと言うと、世界には虚構を通じてしかアクセスできない現実があるからです。ある程度賢い人なら、目に見えるものに最適化して一番マシな結論を探すことはできる。でも、目に見える世界だけでは、そもそもの問題設定をすることはできない。問題設定は、想像力の領域でしかできないんです。そこは文学とつながった政治の言葉を使うしかない。そのためには一度虚構の世界に退避する必要があると思っている。

だから、僕は結論だけを書くのは嫌だったんです。なぜ自分はこう考えるようになったのか、という過程を疑似体験してもらいたかった。言及しているアニメ作品を見たことがなくても、わかるようには書いています。ただ、評論を読むことで、本編を見たくなるような読書体験をしてほしかったんです。

なぜオタクはネット右翼の温床になったか

――この本では宮崎駿、富野由悠季、押井守だけでなく、戦後アニメと社会との結びつきを徹底的に論じています。これはどういう問題設定だったんでしょうか。

これまで「オタク」の問題は、自意識の問題だと思われていたんです。しかし、僕はオタクというのは自意識の問題ではなくて、実は技術であり、社会であり、思想の問題ではないかと考えています。だからアニメ作品と政治の結びつきについて論じました。というのも、僕はアニメや特撮が好きな人間として、オタクがネット右翼の温床になっているという現実が、本当に悲しいんですよ。そこに関しては、僕には明確な反省があります。

『母性のディストピア』(宇野常寛著・集英社刊)

――反省というと?

2000年代初頭に「新しい教科書をつくる会」や「2ちゃんねる」など、ネット上で右翼的な言動が目立ちはじめたとき、僕はそういう人たちを鼻で笑っていたんですよね。「あんなやつら放っておけばいいんだ」と思っていた。そこに関して僕は間違っていたと思います。だからこそ、オタクというのは思想の問題なんだということを、ちゃんと書かなければいけない。

日本のサブカルチャーのなかで、政治的であろうとしたのはオタク文化だけだった、というのが僕の考えなんですね。そのことを特に2部と6部で書いています。僕はオタク文化には正しく政治化できる可能性があった、と考えているんです。