「政府統一見解ではない」と断って披露した1954年の下田武三条約局長の発言(*2)一つだけで、「政府」は一貫して集団的自衛権は違憲だと考えていた、などと主張する論者もいるが、歴史認識として間違っているというよりも、意図的な操作だろう。1940年代・50年代の政府関係者や言論人たちの発言を見ると、集団的自衛権が違憲だというコンセンサスがあったという形跡はない。国際社会への復帰を目指していた戦後初期の日本においては、国際法規範の受入れこそが問題であった。自衛隊は違憲か否かの争いがあったとしても、集団自衛権という権利の行使が違憲になるという認識はなかった。
一方、1960年代末の時代背景を考えれば、日本の集団的自衛権行使の否定は、つまり日本がベトナム戦争に参加する可能性を否定することであった。1969年以降の佐藤政権は、内閣法制局長官の高辻正己を通じて、憲法は集団的自衛権を認めていないという結論を強調していった。ベトナム戦争によって悪化した集団的自衛権のイメージと、反安保・反沖縄返還運動が交流して東大安田講堂事件が進行中であった当時の世情不穏を考えれば、まずは憲法が認める自衛権は個別的自衛権のみで集団的自衛権発動の可能性はない、と断言することに、大きな政治的意味があっただろう。佐藤首相は内閣法制局の憲法解釈を尊重するように振る舞ったが、それは法制局の法的見解を佐藤が政治的に欲していたことの裏返しでもあったはずだ。
佐藤栄作の「方便」が、なぜか金科玉条に
集団的自衛権違憲論は、アメリカが日本の共産化を恐れていた冷戦時代の産物である。密約を積み重ねて沖縄返還を達成した佐藤栄作に対して、アメリカ側が不満を持ちながらも怒りを爆発させなかったのは、自民党政権を追い詰めて日本に共産主義革命を起こしてしまうことを何よりも恐れていたからだ。そこにつけこんで、 ベトナム戦争においてアメリカの軍事行動を阻害はしないが、積極的には何もしないという姿勢を堅持しつつ、不可能と言われていた沖縄返還を達成した佐藤の狡猾さは、集団的自衛権を憲法が禁止していると信じる憲法学者たちを、後世に大量に作り出す結果をもたらした。