実母のもとで育っていった秀頼は、淀殿の言いなりで愚昧な将というイメージがつきまとうが、そうではない。
石田三成がはじめた関ヶ原の戦いで西軍総大将に擁立された秀頼は、敗北により220万石から、摂津・河内・和泉65万石の一大名となり、秀吉の遺言どおり、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の娘千姫(母親は淀殿の妹)と結婚する。家康からたびたび上洛命令があったが、母淀殿はこれを拒否。慶長16年(1611)3月、「初代将軍家康に頭を下げる」のでなく「正室千姫の祖父に挨拶する」という名目で上洛し、京都二条城で家康と会見を果たす。
このとき成長した秀頼を見た家康は、「この男を生かしておいてはまずい」と直感。豊臣家を滅ぼすため、大坂の陣を起こすのだ。
もし秀頼が愚昧だと家康が思っていたら、あるいは豊臣家が滅ぼされることはなかったかもしれない。また秀次が存命していれば、豊臣家が滅ぼされることはなかったかもしれない。
いくら実子がかわいくても、甥を尊重し、世継ぎの「保険」として残しておかなかったのは、秀吉の失敗だろう。