だが、他人に見えないことには見栄を張らない。誰にもわからないところで見栄を張っても無意味なのだ。そういう時は、「お値打ち」なものに飛びつくのだ。
その辺は、実に功利的にきっちりとしているのである。
もらっていいものは、もらわずにいられない
初めて目にした時、これはいったい何だろうと思ったのは、街中の新しく開店した店の前に置かれていた、緑色のオアシス何個かだった。オアシスというのは、花を挿す緑色のスポンジみたいなものである。それが、受け皿にのっていくつも並んでいるのだ。
弟の運転する車に乗せられて名古屋の街中を走っていた時のことである。
そこで弟にきいてみた。
「あれは何なんだ」
その答えは想像を超えたものだった。
「あそこに新しくオープンした店の、開店祝いの花だわ」
「花だわって言うけど、花なんかないじゃないか」
「開店祝いに飾った花を、その日のうちに近所のおばさんたちがもらっていっちゃうんだ」
あれには驚いた。開店祝いで飾ってある花をその日のうちにもらっていって、オアシスだけが残っているなんて常識では考えられないではないか。
「どうしてその日のうちにもらっちゃうんだ」
「開店したというのは、その日の朝店を開けた時のことで、そこを祝ったんだから、あとは用ずみの花だと考えるのかなあ」
弟も詳しくわかっているわけではなさそうだった。そういう会話をしたのは今から20年くらい前のことだ。
とにかく、名古屋では開店祝いに飾った花は、あっという間に近所の主婦に持っていかれてしまうというわけだ。あらまあ、用ずみの花があるわ、もらっていきましょう、というふうに。
信じられないような図々しさだが、得なことが大好きな名古屋人にはそれはごく自然なことなのかもしれない。そこにある、もらっていいものは、ためらいなくもらうのだ。
葬式での不思議な光景
それ以来そのことを名古屋では気にしていて、私はもう一つ別のことを知った。それは、葬式についてである。葬式があると、斎場の門口などにも花籠かごがズラリと並ぶことがある。白い菊の花が入れられ、名札がついているような花籠だ。
それで、葬式が終わって、人が散り散りになる頃、あの花籠の花を近所の主婦たちがもらっていくのだ。あっという間に花籠はからっぽになる。
葬式が終わったら飾ってあった花はもらい放題というのが名古屋の習慣なのである。
用ずみの花なんだからもらってもいいものである。このまま枯れさせてしまうのはもったいないから、近所の人が家に飾ればムダにならない。
そういう理屈で、みんな花をもらっていくのだ。開店祝いの看板が出ている店の前のオアシスだけ、というのはかなり異様な光景である。
しかし、それは一種の合理性だと言えなくはない。用ずみのものを放置しておくのはもったいないのだから。