【弘兼】3年半の「修業」の成果は。

【桜井】とても勉強になったのですが、その分、実家に帰ってからは、父親とぶつかるようになりました。

【弘兼】大手のやり方を知り、お父さんの仕事ぶりに対して、改革すべき点が目につくようになったのですね。

図を拡大
「日本酒離れ」でも「獺祭」は急伸/日本酒の輸出は100億円を突破!

【桜井】親にしてみれば、「まだ何も知らない若僧のくせに」とおもしろくない。1年半で、「明日からおまえ、会社に来んでええ」と勘当されました。

【弘兼】仕事はどうしたんですか?

【桜井】自分で「櫻井商事」という石材卸業の会社を興しました。父親は「そのうち詫びを入れてくるだろう」と思っていたのかもしれません。しかし、年商が2億円程度まで拡大するなど起業はうまくいきました。

【弘兼】それからの親子関係は。

【桜井】結局、最後まで修復できませんでした。父親が1984年に急逝し、私は旭酒造に復帰しました。

【弘兼】日本酒の「冬の時代」ですね。

【桜井】はい。当時の看板商品「旭富士」の生産量は10年で3分の1に減っていました。しかも旭酒造は岩国市内に4つある酒蔵のなかで4番手。酒屋では大幅な値引き販売が常態化していました。経営状況は惨憺たるもの。そして最大の問題は「値引き」を疑わない風土でした。

【弘兼】負け癖が社内に蔓延していた。

【桜井】最初は本当に苦労しました。「自分なら立て直せる」と考えていましたが、いくらやってもうまくいかない。死亡保険金を目当てに自殺しようかと思い詰めた時期もありました。でも、死ぬ前に、やれることをやってみよう。目の前の常識を疑い、新しい挑戦をしてみよう。そう考えて挑戦したのが「獺祭」でした。