「盗作」の検証はいつの時代も的外れ
「2ちゃんねる」の開設は1999年5月。以降、パクリ告発はほぼすべてネットが出火元となる。当時から基本的な流れは変わらない。ネット住人の「正義」漢ぶりもそう変わらない。素朴な印象だけを頼りにシロクロ決め付けて叩く「検証」の的外れぶりも変わらない。佐野氏の件など、「Google画像検索」のおかげで、言い掛かりじみた告発はむしろ少なかった印象すらある。
変化したのはマスメディアである。ツイッターやフェイスブック、バイラルメディアが登場するにつれ、当初はネット上の騒動とは距離を置いていたのが、おずおずと便乗しはじめ、いつからか積極的にネタを拾いに行ってはばからなくなった。
マスメディアで報じられることは、共感だけを拠り所としていた「正義」に権威のお墨付きを与えることを意味する。マスメディアとバイラルメディアが結託すれば「正義」の暴走を加速させる。当然の帰結だ。
では、ネット以前はどうだったか。
ネット登場以前、盗作疑惑が表面化するのには、おおよそ3パターンあった。(1)盗作された(と思った)側が告発するケース。(2)第三者(ユーザー、他の作家や評論家などの同業者)が発見するケース。(3)新聞や雑誌がスクープするケースである。
現在のネットによる告発は(2)に相当する。前回の東京オリンピックのエンブレムとポスターを手掛けた亀倉雄策にも数度、盗作疑惑が持ち上がったことがあるのだが、奇しくもというべきか、いずれも(2)のパターンだった(加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学』)。
文学の場合は(1)と(3)が多かった。新聞雑誌の盗作疑惑告発は60年代から70年代がもっとも活発で、80年代以降ガクンと減るのだが、その原因は(3)にあった。捏造やマッチポンプじみた所業を繰り返したせいで、いわば自滅したのである。
当時の新聞雑誌による告発糾弾と、ネット以降の告発糾弾を見比べると、実は中身にさほどの違いはない。吊し上げる主体が、マスメディアの一部の記者から、不特定多数の匿名に移っただけで、振る舞い自体には大差がなかったりする。