弥生会計やポーターでは、全く通用しない

偏差値導入を主導した政治家の口から直接、「(安保闘争に懲りて)国やアメリカに逆らわない従順な国民をつくるために偏差値を導入した」と聞いたことがある。政府の狙い通り、偏差値教育によって“身の程”をわきまえた従順な日本人は増殖した。しかし、同時に日本の近代化、戦後復興、高度成長の原動力にもなった日本人のアンビション、気概、チャレンジ精神をすっかり削いでしまったと思う。

教育者としてはG大学とL大学という区分にも同じ危惧を覚える。提言者の一人である冨山和彦氏は実践的な職業教育重視のL大学で学ぶべき内容として、「経済・経営学部はマイケル・ポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」といった例を挙げている。だが、今やクラウド会計ソフトの時代で、弥生会計が主力にしているCD‐ROMのパッケージソフトは時代遅れ。弥生会計を持ち出すセンスが怪しい。同氏が参考にしたというドイツでは中学の後半から半数以上がデュアルシステムで職能を身につける道を選ぶ。つまり職能は18歳くらいまでに身につけて“L大学”に進むわけではない。すなわち350くらいに細分化された職能は10代のうちに働きながら身につけ、そのまま就職するのだ。ドイツから見れば、そもそも“L大学”の存在意義自体が不明、ということになる。

一方、G大学で学ぶべきことがマイケル・ポーターだとするなら、これまたレベルが低すぎる。ポーターは過去25年の企業研究から競争戦略論を提唱して、ファイブフォースやバリューチェーンといった戦略手法を25年教えてきた。ということはもはや50年前の戦略であり成功方程式だ。そんなものをありがたがって教えていて、グローバルに競争できる人材が育つわけがない。輸入学者が原書の解説をするような授業だったら、グローバルには程遠い。

G大学出身、L大学出身のレッテルがついて回るようになったら、日本の社会はさぞや殺伐としたものになるだろう。ただでさえ、役人の世界では東大の法学部と経済学部では差があるし、東大卒と京大卒ではもっと差があるのだから。私に言わせれば、そうしたレッテルが日本という国の伸び代を奪って、硬直状況に追い込んだのだ。

ひもじかった戦後や成長期のように放っておいてもみんなが伸びているときは問題ないが、成熟期から長期衰退期に足を踏み入れつつある今は一人でも尖った人間が欲しい。そういう人材が出てくるのは、まずG大学からではないし、G型L型という区分けがかえって尖った人間の輩出を阻害することになると思う。大学教育はこれからどうあるべきなのか、次回、私なりの考え方を示したい。

(小川 剛=構成 時事通信フォト=写真)
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