大学職員から講談師に入門
大学4年(1990年)の就職活動では、特別区(東京23区)の採用試験を受けるが、不採用となる。その頃、新聞の求人広告で、法政大学が職員を募集していることを知る。すでに就職活動のシーズンが過ぎようとしていた。急いで応募し、内定を得る。中央大学の職員の募集は締め切られていた。
91年、法政大学の職員となる。配属先は、多摩キャンパス。経済学部や社会学部がある。ここに5年間、勤務した。6年目(97年)からは、都心の市ヶ谷キャンパスに異動となり、管財課や教務課などで仕事をした。
職員の最終学歴は、大卒が多かった。職場で学歴について話し合うことはなく、人事評価や昇格、人事異動などで学歴の差を感じることもなかったようだ。
「付属校出身者は、法政も中央も、一般入試を受けることなく、入ってくる仕組みは同じですから、学力、特に英語力は低いのかもしれませんね。法政では、附属校出身者の中に、公認会計士の試験に受かるような優秀な人もいましたから、一概にはいえないものもあるかと思います」
この頃(00年)、上司の了解を得て、講談師・田辺一鶴のもとに入門をした。
「上司は、すんなりと認めてくださいました。講談師ならば、みんなの前で話す力が身につく。法政大学を高校生などにPRするときにも役立つ、と話してくださったのです」
月曜日から金曜日までは大学職員、休日には師匠に仕え、さまざまなことを学ぶ。しばらくすると、前座にも出るようになった。報酬は、1日2000円。師匠は、「大学職員を辞めないほうがいい。これだけでは、生きていけないよ」と言ったようだ。
入門する前には、俳優として演劇にも関わっていたが、あるジレンマに陥っていた。休日を返上し、稽古に参加するも、自分の出番がないことがある。もどかしさを感じていた。大学職員をしながら演劇に参加していることも、俳優の仲間に打ち明けることができなかった。仲間の多くは、アルバイトをしながら来ていたからだ。