熊本県知事選に出馬した理由
【塩田】細川護煕氏(元首相)が1991年に熊本県知事を退任したとき、後任候補として名前が取り沙汰されたことがありましたね。
【蒲島】筑波大学の助教授でした。自民党の中で候補者の調整を行って福島譲二さん(元労相)に決まり、知事選に勝って細川さんの後任知事となりましたが、もう一人の候補の背景は農協グループでした。私も元農協職員ですので、そちらの陣営から、ワンセットで全部揃っているから選挙に出ないかという話があったんです。それで、地元の先輩である自民党熊本県連会長だった小材学さん(元熊本県議会議長)に聞いたら、「いい勝負はするだろうけど、勝敗はわからん」という話でした。最後に三宅一郎先生(当時は神戸大学教授。政治学者)に相談したら、「学問をやり尽くした後でやればいい。今は学問以外のことは考えるな」と言われ、それで立ち止まりました。もちろん選挙をやろうかなという気持ちがあったから相談したんです。このときは選挙をやらなくてよかったなと思いました。
【塩田】それから17年後の2008年3月の熊本知事選に61歳で出馬しました。
【蒲島】潮谷義子前知事が3選不出馬となり、いくつかのグループから出馬しないかと話がありました。私は故郷の熊本の役に立ちたいという気持ちでしたが、家族も同僚も学生もみんな反対です。でも、何のために30数年、政治学を勉強し、研究してきたのかと考えると、やはり自分の知識を返さなければと思いました。今は政治家になってよかったと思います。それまでは論文も名声もすべて自分のためで、そういう生き方でしたが、人のために生きることが幸福なのだと初めてわかりました。
【塩田】08年に知事選に出たときは「学問をやり尽くした」という気持ちでしたか。
【蒲島】04年に『戦後政治の軌跡――自民党システムの形成と変容』(岩波書店刊)を刊行しました。多分、政治学者としてこれ以上は行けないだろうなと思いました。そのようなときに政治家という選択肢が出てきたわけです。自分の人生の短さを考えると、学者を続ければ、後は弟子を育てるくらいでしょう。選挙での当選の可能性は、私なりに非常に高いと感じていたので、出馬を決断しました。
【塩田】地方自治の現状、国と地方の関係、地方分権のあり方などをどうお考えですか。
【蒲島】実際に政治をやって初めてわかったのですが、地方分権や中央集権はあくまで手段であって、目標は日本国民が幸せになることです。私にとっては熊本県民の幸せが大目標です。その観点から言って、現在、重要なのは地方分権です。熊本県民の幸せは霞が関の部屋の中より、近くでみんなと接している私のほうがわかります。
中央集権のがんじがらめは感じています。その意味で、地方分権や道州制を唱えていますが、地方分権や道州制が実現しないから何もできないという考え方ではありません。これだけの中央集権の中でも、川辺川ダム建設計画の白紙撤回や、大型ダムの撤去もできました。地方分権や道州制がフルセットで全部揃っていなければ何もできないという主張もありますが、私は、現状でもできることをとことんまでやって、それでもダメなときに制度改革が必要という考え方です。
ただ、現在、日本では人口減少や地方創生が大きな課題になっています。それに対応できる制度は何だろうと考えると、私は道州制ではないかなと思っています。