「リベンジのチャンスを与えてほしい」

元担当記者が打ち明ける。

「ヒルマンは勉強熱心で、新渡戸稲造の『武士道』(『Bushido,the Spirit of  Japan』)から、水島新司の漫画『あぶさん』まで、いろんなものを読み、日本と日本人を理解しようと努めていましたが、チーム成績は伸び悩みました」

1年目(2003年)は5位、2年目は3位、3年目は再び5位。05年のチーム三振数1151はプロ野球ワースト記録。

だが、4年目の06年に「ベースボール」を捨て、「野球」に徹し、活路を見出す。象徴的なのは、犠牲バントの数。05年は54個しかしかなかったが、06年には133個まで増えた。

試合内容を細かく検証すると、バントが即得点に結びついたわけではないが、三振が254個も激減したように、ランナーを進めることで、チームプレーの精神が醸成され、選手が一丸となったのである。

ヒルマンらしかったのは、アメリカのマイナー時代の経験に基づき、2年目のダルビッシュ有(この年、12勝5敗)やルーキーの八木智哉(同、12勝8敗で新人王)を積極的に起用し、育て上げたことだった。

いっぽうで、ベテランにも目配りし、クローザーのマイケル中村など、リリーフ投手の信頼が厚いことから、ベテランの中嶋聡を「抑えの捕手」として起用した。

「抑えの捕手」は、日本の倍の歴史があるメジャーリーグにも存在しない。日本式のコミュニケーションを重んじ、日本ハムは快進撃をつづけ、25年ぶりにパ・リーグの覇権を握るのである。

しかしながら、すべてが順風満帆だったわけではない。シーズン終盤には、極めて日本的な事件が持ち上がる。ピッチャーの金村曉(さとる)による舌禍事件であった。

試合は9月24日のロッテ戦。この日、先発した金村には、5年連続の二桁勝利、6年連続の規定投球回数到達という自己記録がかかっていたが、4対1とリードして迎えた5回裏、二死満塁という場面で、ヒルマンは交代を命じた。

そのため、金村は試合後にキレた。

「絶対に許せない。外国人監督だから個人記録は関係ないのだろう。もう顔も見たくない」

慌てたのは、ヒルマンでなく、球団であった。即座に金村の出場選手登録を抹消し、罰金200万円を課した。

蜂の巣をつついたような騒ぎに発展したが、ヒルマンは冷静だった。レギュラーシーズンが終了すると、球団事務所から金村に電話をかけている。

「君の9勝がなければ、我々はパ・リーグを1位で通過できなかったんだ」

そればかりか、出場停止処分を下した球団に対し、「日本シリーズでリベンジのチャンスを与えてほしい」と懇願している。

あまり知られていないが、ヒルマンは敬虔なクリスチャン。相手のミスを許すという寛容な精神の持ち主だったのである。