そういうときに、法然や親鸞が地獄に行かなくてもいいよ、平等に生きるのは難しいが、阿弥陀仏という仏は、人々を平等に救うのだ、と説いたものだから、不安の中で脅える民衆にとっては、藁にもすがる思いだったし、ものすごく希望の声に思えたんじゃないでしょうか。
実は、私自身も人を押しのけて、人の食べ物を奪って生きのびざるをえなかった経験があります。13歳のとき、いまのピョンヤンで敗戦を迎え、他人を押しのけるようなエゴイスティックな人が生き残って帰国し、心やさしい人は倒れていく様を目の当たりにしました。そのせいで心の中に暗い闇を抱えた少年時代を過ごし、自殺を考えたこともあります。
親鸞の人間観の土台には、このように、生きるために殺生をしたり、嘘をついたり、騙したり……といったことをせざるをえない世間一般の生活者のことがありました。罪ある者としての自己、重い矛盾を抱えながら生きる、こうした人のことを「罪業深重(ざいごうじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)」と言い、その人たちが救われる道を指し示したのです。親鸞も、罪業深重の凡夫の側に自身を置いていました。親鸞の弟子には武士が多いのですが、それは、人を殺すことに深い罪業意識を抱えていたために、親鸞の教えに強く引かれたのでしょう。
仏教では、人間が生まれて生きていくことを「苦」と規定しています。生きるというのは苦しいことだ。いま生きる世界が地獄であると。ましてや死んでからも地獄に行かなければならないという不安がある。それならばそれを取り除き、希望や安心、生きる力を与えることこそ、ブッダ本来の教えに通じ、人間の幸せにも通じると、親鸞は考えたのです。
1932年、福岡県生まれ。戦後朝鮮半島から引き揚げた後、早稲田大学露文科に学ぶ。PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門』(筑豊編ほか)で吉川英治文学賞を受賞。2010年刊行の『親鸞』は第64回毎日出版文化賞を受賞。