当時、他のアメリカ企業と同様にコマツのアメリカ法人でも工場閉鎖とレイオフを実施していたが、テネシー州の工場だけは資本構成の違いなどから日本流を取り入れ、雇用維持を打ち出すことになった。いまでいうワークシェアリングを実施し、全員の職場を確保する。従業員は減産期間中の五カ月間は工場の建屋にペンキを塗るだけではなく、地元の小学校にまでペンキを塗りに出かけていった。

ところが、州政府の補填もあって給料の8~9割は保障されたのだが、現地の労働者たちにはこのやり方が奇異に感じられたらしい。

「仕事が少ないなら、新しく入った奴らをレイオフすればいいじゃないか」

「なんで俺たちまで一緒に給料を下げられるのか」

工場で集会を開けば、古手の従業員からはこんなクレームが飛び出してくる。彼らにも「理」があるので、日本流の「情」を説明して納得させるのは難しかった。

そこで私は、アメリカ人の部下から知恵を借り、ここだけは練りに練った英語でこうぶつけてみた。

「みなさんにわかってほしいのは、俺たちはみな同じボートに乗っているということだ。コマツのほかの工場はたしかに閉鎖やレイオフを行ったが、あれはもともと合弁相手のものだ。組合があるし、レイオフのルールもきちんとしている。だが、この工場は違う。だから、みんなで苦楽を分かち合うというコマツの流儀を持ち込んだのだ」

満場の拍手が起きた。思いは通じ、以来、テネシー工場では労使間の信頼関係が大きく改善した。とりわけ言語や習慣が異なる外国においては「言葉によってコミュニケーションを図る」ことがいかに大事であるかを実感させられた瞬間だった。

もっとも、「雇用に手をつけない」という方針を確立したために、余剰人員リスクを招いてしまったのも事実である。いざというとき人を切れない足かせがあるため、好況のときもテネシー工場では積極的な設備投資に踏み出せないというジレンマが生じたのだ。

日本流を持ち込んだことがほんとうに地域経済のためによかったのか、いま私には若干の悔いが残っている。

(面澤淳市=構成 芳地博之=撮影)