お客はそこにいた
安森は67年に西武百貨店に入社した。労働組合の専従を経て、婦人服、家電品などの売り場を担当し、筑波店の店長をつとめた。筑波店は、つくば科学万博の開催にあわせて85年にオープンした店舗だ。安森は83年に開店準備室長に指名され、そのまま店長となり、約5年の月日を筑波店で過ごす。
辞令を受けた安森の気分は最悪だった。「あんな店、うまくいきっこない」が、周囲の共通認識だったからだ。そもそも周囲に客がいないじゃないか。失敗は目に見えている。けれど、オーナーの堤清二が進める事業だから仕方がない。止めようがない。西武の人間の多くがそう感じていたが、大方の予想に反して筑波店は軌道に乗った。
客はそこにいたのである。
「僕も最初は何であんな場所に……と思っていたクチです。ただね、実際に筑波店周辺を車で走ってみると、どこかでこの光景を見たことがあるなとは感じました。それは、研修で行ったアメリカで見たLA郊外の風景だった。もしかすると、巨大な駐車場を備えて、ここに『東京』を持ってくればうまくいくかもしれない。これまで東京に流出していたお客さんを店に呼び寄せられるかもしれないと思うようになりました。堤さんは、車社会がどういう消費構造を招くのか、人が車という移動手段を手にしたとき、時代がどう変わるのか読んでいた。見抜いていたんですね。商売については彼から何も学んでいませんが、時代を読む目、マーケットの見方についての学びは多かったですよ」
筑波店時代の堤清二とのエピソードは、安森の「商いに対するポリシー」を知る格好の材料なので、やや長くなるが取り上げたい。
筑波店に併設する映画館をめぐって、何気なく発した安森の言葉に、堤清二は烈火のごとく怒ったことがあったという。
堤の逆鱗(げきりん)に触れたのは、安森が口にした「筑波店には映画館もあります」の「も」という助詞。さすが詩人、堤はこれを聞き逃さなかった。映画館は百貨店と対等な施設として設けるのであり、決して単なる付属施設ではない。だから、「も」などと言うな。
「映画館と百貨店」、つまり、「も」ではなく「と」を使えというのである。正直言って、言葉尻にこだわったいちいちうるさい指摘で、こんな上司の下で働くのはかなわないとは思うが、意図するところはよくわかる。
堤の発想は英語で考えるとわかりやすい。安森は「百貨店 with 映画館」、方、堤は「百貨店 and 映画館」の発想だった。
「堤さんにしたら、これから百貨店が生き抜いていくためには違ったファクターが必要で、その1つが映画館だと考えていたわけですよ。それほどの危機意識を持てということなんでしょうが、僕は百貨店マンですからね。根っからのモノ売りですもん。コトを売るなんて興味がない。withでもandでもどっちでもよかった。映画館を併設したら百貨店がペイするなとそろばん勘定をしたまでです」
この顛末、どうなったかと言えば、「andだと言われればandだよな」と多少反省し、どうしたら地元の客に愛される映画館にできるかと安森は発想を切り替えたという。
売り場を何よりも重要視し、勘定を怠らない安森らしさがうかがえる逸話である。