宦官(かんがん)の家系に生まれ、宮廷の腐敗堕落、宦官や姦臣の専横を目の当たりにしてきた経験が、自らの出自とは対極の“純粋さ”に曹操を駆り立てたように思える。
青洲黄巾軍との3カ月にわたる交渉から帰参した参謀・荀彧(じゅんいく)の髪は真っ白だったという。しかし青洲の保護と引き換えに、青洲黄巾軍の精鋭30万人を組み込むことで一躍巨大な軍事力を得て、曹操は覇道を歩み始める。軍人、武人というだけでは覇者に足りない。三国時代、曹操より武に勝る豪勇は大勢いたし、魏にも夏侯惇(かこうとん)、夏侯淵(かこうえん)などの軍人がいた。覇者になるには教養が必要なのだ。その点で曹操の教養は劉備や孫権を圧倒していた。後世に名を残した文人、詩人にして、孫子の兵法を今ある形にまとめた兵法家でもあった。
集まってきた人材の使い方もまた非凡。
「治世の能臣」である曹操は文官の重要性もよく意識して、武の才能以外を見極める目を持っていた。有能であれば、前歴も思想も問わずに即座に登用し、その能力を最大限に発揮させた。
たとえば荀彧は漢王室の熱心な信奉者だったし、賈●(かく)は張繍(ちょうしゅう)の臣だったところをヘッドハンティングされて軍師として重用された。呂布や関羽を殺さずに自分の配下に置こうとしたのは、彼らの軍才を買っていたからだ。
猜疑心が強かったともいわれるが、曹操は人の見た目や性格ではなく、才を愛したのだろう。そして愛された才能は出涸らしになるまで使われた。
史実によれば、ある日、従軍して病に倒れた荀彧の下へ曹操から料理が送られてくる。フタを取ったら空の皿だけ。もはや自分が必要とされていないことを悟った荀彧は毒をあおって死んだという。
※●は左に言、右に羽