この地で新しいことを始めた男
福島県を南北に貫く東北新幹線、西の会津へと伸びる磐越西線、東の浜通りへと伸びる磐越東線、その交差点が郡山市だ。人口は約32万8000人、県庁所在地の福島市(約28万4000人)を上回る福島県中通り最大の都市だ。譜代大名・板倉氏の城下町であった福島と異なり、明治になるまでは人口5000人程度の宿場町でしかなかった郡山——奈良時代から「安積(あさか)」と呼ばれてきたこの一帯が県最大の商都となる契機は、明治時代の安積疎水開拓だ。
西に位置する猪苗代湖(地図では緑色)から山を越えて水を引き、原野を開拓した安積疎水は、明治政府の国家プロジェクト第1号として知られているが、正しくは県の事業として始まり、次に民間資本も導入した「第三セクター」となり、そのあとで国が乗ってきたという順番になる。旧米沢藩士にして樺太や北海道の開拓計画に携わった経験を持つ福島県の典事(課長)中條政恒(なかじょう・まさつね)が、最初の当事者だ。中條は郡山の原野開拓に着手、出資を渋る郡山の商人たちを「各富豪なりといえども、邑(むら)のため、国のため尽す所なくんば、守銭奴の侮辱まぬがるべからず」と説得、東北での国家事業を企図していた大久保利通の賛意を得て、安積疎水の着工に至った。安積疎水には水力発電所もつくられ、東京への長距離送電が行われる。戦後の会津・奥只見ダム発電所、そして浜通りの原子力発電所群と、福島が東京の電力供給基地となる第一歩は、郡山から始まっている。
郡山では4人の高校生に話を聞いた。そのうち3人が通うのは日本大学東北高校だ。同高のウエブサイトを見れば、南相馬の原町高校(連載第8回《http://president.jp/articles/-/7990》)と同じように、環境放射線測定値が記されている。「南門そば」の数値は0.173(昨12月26日付け。単位は測定高1メートルでの1時間あたりのマイクロシーベルト)。震災直後、2011年4月の時点では「グラウンド中央:1.77」という数値だった。
■日本大学東北高校敷地内 環境放射線測定値
http://www.tohoku.hs.nihon-u.ac.jp/modules/news1/article.php?storyid=4