実は、私が立ち上げた平成維新の会・一新塾出身の政治家は、民主党系が多い。自民党は官僚出身でもなく地縁血縁もない候補者に冷たい。どうしても自民党に入りたいという現自民党幹事長の茂木敏充氏は例外で、仲の良かった小渕恵三元首相に頼んだが難しいということで、最初は細川護熙もりひろ元首相に誘われて日本新党に入った。長妻昭氏や長島昭久氏など政界入りを望む出身者の多くは、人材を広く求めていた民主党の門を叩いた。その関係から稲盛氏は私に声をかけてきたのだ。

もともと私と稲盛氏の政策的な考えはほぼ一致している。しかし、あの段階で民主党支持と旗幟きし鮮明にするつもりはなかった。声をかけてもらったことに感謝しつつ、結局、「民主党ではなく稲盛さんなら応援します」と言ってお断りした。

稲盛氏は自分1人で目立つことは避けたかったのだろう。広告の出稿はやめて、別の形で民主党を応援したと聞いている。一面広告は実現しなかったものの、それをやろうと画策するくらいに真剣に小沢氏を応援していた。

稲盛さんと議論したアメーバ経営と道州制

平成維新の会は、道州制や地方自治をテーマの1つにしていた。ユニットに力を与えて全体を活性化させるという点で、稲盛氏が提唱したアメーバ経営と通じるものがある。稲盛氏は日本のアメーバ経営を実現したかったのだろう。勉強会に来るたび、私に「あなたが国を変えないといけない」と話していた。

ある日、夕食に誘われた。行くと、堺屋太一氏がいた。当時、世間では気鋭の評論家をまとめて“一太郎三ピン”と呼ばれていた。一太郎は長谷川慶太郎、三ピンは竹村健一、堺屋太一、そして大前研一である。稲盛氏はそのうちの2人を呼びつけ、持論を滔々とうとうと述べた後、私たちを熱く見つめた。

「いまこの部屋には日本を代表する2人のブレーンがいる。あなたたちが協力し合えばこの国は変わります。握手しなさい」

私は言葉に詰まってしまった。堺屋氏が嫌いなわけではない。堺屋氏とは事務所が近く、道ですれ違えば立ち止まって話をする程度には仲が良かった。しかし、堺屋氏は自分の考えがすべてという一匹狼で、考えの違う人とすりあわせて一緒にやっていくタイプではない。組んでも空振りになることが見えていたので、何も言えなかったのだ。

堺屋氏は大人で、ひとまず稲盛氏の顔を立てようと考えたのだろう。尻込みする私に、「女子プロレスはお好きですか。来週、試合があります。一緒にいかがですか」とチケットを差し出した。女子プロレスに興味はなかったが、さすがに断れずに受け取った。

翌週、出張から帰ったその足で後楽園ホールに直行したが、到着したら試合は終わっていて、パイプ椅子の撤去が始まっていた。事情を話して許してもらったが、手を組む話は立ち消えに。堺屋氏はもちろん、稲盛氏にも不義理をしてしまった。