ボクシング最強の称号“パウンド・フォー・バウンド”の呼び声高いマニー・パッキャオ。フィリピンの貧しい農家で生まれ育ち、幸運と番狂わせの勝利を繰り返し、アメリカンドリームを実現させてきた。「小が大を食う」パッキャオの試合にボクシングファンは熱狂し、今や彼は1試合で2500万ドル(約19億円)のファイトマネーを手にするスーパースターとなった。
6月9日(日本時間6月10日)、アメリカ・ネバダ州ラスベガスでWBO世界ウェルター級王者ティモシー・ブラッドリーとタイトルマッチを敢行する。注目の一戦を前に、パッキャオを少年時代から知るWOWOWエキサイトマッチの人気解説者ジョー小泉氏(国際マッチメーカー)にパッキャオの魅力を聞いた。

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部新聞学科卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。ボクシング、格闘技、ラグビー、サッカーなどを担当。2006年に退社して文藝春秋社「Number」編集部を経て独立。著書に「闘争人~松田直樹物語」(三栄書房)、「岡田武史というリーダー」(ベスト新書)がある。「Number WEB」にて日本代表コラム「2014年、ブラジルへ」を連載中。
――ジョーさんはパッキャオがデビュー間もない頃からご存知のようですね。
私がフィリピンのルイシト・エスピノサ(元WBA世界バンタム、WBC世界フェザー級王者)のマネジャーをやっていた関係で、(同じフィリピン人の)パッキャオのことは17歳ぐらいから知っていました。実は『パッキャオのマネジャーにならないか』という話もあったんですよ。だけどそんなときにフィリピン国内の試合(99年2月)でパッキャオがKO負けしてしまって、関係者から『アイツは根性がないから(引き受けるのは)やめたほうがいい』と言われてね、結局は引き受けなかった。後になってみんな見る目がなかったな、という話をしましたけどね(笑)。
あの時からパンチはありましたよ。荒削りではありましたが。我流のボクシングで、脇が甘かった印象があります。これを直すのは大変だと思いましたけど、(現コーチの)フレディ・ローチがそれを直したわけです。
――幼少時代のパッキャオは貧しい農家で育ち、大変苦労した、と。
フィリピン南部にあるミンダナオ島のジェネラルサントスシティーという漁業の盛んな町に生まれて、彼はマグロ工場で働いたり、タバコをばらにして売り歩いたりして家族の生計を助けていたそうです。アマチュアからプロボクサーに転向する際には、先にマニラのジムに行っていた仲間がパッキャオの片道の渡航費を出したと聞いています。ジムに入ってからは、ワンツーばっかり練習で打たされたそうです。その甲斐あって、左ストレートのパンチは強くなりましたけど。