例えば、2000年代、大連の市長が日本に現地の経済関係者を300人ほど連れてきたことがあった。日本企業の経営者を集め、「大連に進出してください」と投資を呼びかける。総合商社などが手を挙げ、現地の工業開発に参加した。

アフターケアもしっかりしていた。年に数回、進出企業の関係者を集め、市長が「何かご不満はありませんか」と尋ねた。困っていることを訴えると、市長はその場で問題解決する。他の国は進出後にほっぽり放しが多いから、日本企業の担当者は中国の優秀な市長のいるところに投資する、というパターンが多くなった。

各都市が外資を呼び込み、産業振興に邁進まいしんするのは、鄧小平が78年に改革開放政策をスタートしてからだ。各都市で競い合って、優秀な行政官が育つ。鄧小平の功績は莫大だ。私も大連をソフトウエアの中心地にする仕事がCCTV(中国中央テレビ)で放映されたあとには、10を超える市長たちから企業誘致のアドバイザーになってくれ、と依頼が殺到した。

改革開放は深圳シェンチェン珠海チューハイ汕頭スワトウ厦門アモイで始まって、上海、大連、天津、寧波ニンポーなどに広がった。日本の経済発展が中央集権の“単発エンジン”で飛ぶのに対して、中国は各都市がエンジンになる。人口100万規模の都市が100前後あるから、100個のエンジンでドワーッと飛ぶようなものだ。改革開放が成功した最大の理由はそこにある。

しかし近年、鄧小平のモデルは崩れてきた。100の市長がイコールチャンスで競い合うのでなく、もう勝負はついたという印象が、ここ5年ほどで顕著になった。

各都市が経済成長を続けるのは難しい

発展した都市の代表は深圳を中心とした大湾区、上海、京津冀だ。深圳は人口30万人ほどの漁村だったのが、いまでは1700万人を超えている。1人当たりGDPは北京、上海を抜いて中国一になった。かつては“香港の裏庭”だったが、いまは香港のほうが枯れてしまった印象だ。

上海には米国留学から帰ってきた「海亀族」が豊富にいて、ユニコーン企業が生まれやすい。復旦フーダン大学、上海交通大学などの優れた大学もある。

北京市、天津市、河北省を合わせた京津冀地域も大繁栄した。“中国のシリコンバレー”と呼ばれる中関村が、清華大学や北京大学を中核とした校弁企業(ユニコーンなど)の中心地となっている。

いまは鄧小平が描いた中国全土で発展するモデルでなく、いくつかのメガリージョン(大都市域)に集約されてきた。同時に、米国がトランプ大統領のときから経済制裁を加えたことで、米国企業が昔ほど中国の内部に進出しなくなった。米国はじめ外国からの投資を呼び込み、各都市が経済成長を続けるモデルは難しい。トランプのせいも一部にはあるが、他方で習近平が壊してきたことも大きい。