※本稿は、田原総一朗、前野雅弥共著『田中角栄がいま、首相だったら』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
泥臭いイメージとは裏腹に、努力を惜しまなかった角栄
泥臭い一般的なイメージとはかけ離れるかもしれないが、田中角栄は最先端の技術の導入についてかなり貪欲だった。通産省出身で首相の秘書官として角栄を支えた小長啓一も「田中さんは先入観を持たず、新しい知識の習得にも積極的だった」と語る。
角栄が後に「コンピューター付きブルドーザー」との異名をとるに至ったのは、生来の卓越した記憶力によるところが大きい。子供のころ、吃音症を克服するために、毎朝、畑で六法全書を読み上げるうちに暗記してしまった。一種の「天才」である。
長年、角栄とライバル関係にあった石原慎太郎も認めるところだが、小長によると「天才たらしめる、ものすごい努力が陰にはあった。人にはわからないように懸命に努力をしていたのが田中さん」ということになる。実際に角栄は小長に「努力の天才」という言葉をよく使っていたという。
業界トップが集う宴席は最高の「耳学問」の場
たとえば、通産大臣時代、角栄は毎晩3つの宴席を梯子したが、小長によると、ここではほとんど酒を飲まなかったという。午後6時からスタートし、1時間刻みで宴席を回り、経済界や産業界のトップと会談し、真剣勝負の「耳学問」の場とした。それぞれの業界の最先端技術に関する情報もここで吸収していったという。
経済界の超一流のトップから直接、「授業」を受けるわけだから、習得も早い。世界レベルの最先端技術に関するかなりの量の内容が、角栄の頭の中に積み込まれていった。
しかも角栄は夜10時過ぎには自宅に帰り寝てしまうのだが、午前2時になるとむくっと起き上がる。ここが異才だ。いそいそと勉強を始め、役所が用意した資料やデータ、関連図書をしっかり読み込む努力も続けた。40年あまりの議員生活で33本という前人未到の数の議員立法を成立させた裏には、このような人知れず地道な努力があったわけだが、ここでも最先端の技術について知識を習得していった。