“マッチングばあさん”の存在

だいたい、夫婦の関係が家庭の共同運営者から恋愛中心になったのだってごく最近のことです。日本はそれまでの家を重視したガチガチの結婚と、新しい自由な恋愛結婚の中間として見合いというものを考え出したのではないかと思います。

各地域に必ずお見合い話を持って回る女性がいて、僕の記憶だと、だいたいはその家にマッサージしにくるおばさんが多かった。肩とか叩きながら、「お宅の何子ちゃん、そろそろいい歳じゃない?」とか言ってマッチングしていくわけ。“マッチングばあさん”の前は、往診に来る医者がその役割を担っていました。辞書には「慶庵」という言葉が立項されていますが、「江戸京橋の医者大和慶庵が縁談の仲介をしたことにちなむ」と書かれています。これが転じて、慶庵=「口入れ屋」になったのです。

渋沢の時代にも奉公人などを斡旋する慶庵があって、豪商から没落して途方に暮れていたかねを渋沢家に紹介した。こうしてかねは妾として渋沢の家に迎え入れられたのだけど、おそらく渋沢が思いのほか彼女を気に入ったので、千代亡きあと後妻に迎えられました。

カリスマ的な支持を集めた理由

では女性関係に甘く浮名を流した渋沢が、なぜここまでカリスマ的な支持を集めていたのか。やはり、私心がなかったことに尽きるのではないかと思います。

渋沢の時代の国家観というのは今とはまったく異なりました。国家は生まれたばかりの赤ちゃんのように非常に弱く、何かあるとすぐ死んでしまう。だから死なないようきちんと育てなければ、と考えられていたのです。だからこそ彼は、自分がパリで見てきたヨーロッパの近代的な経済システムをもって国家を安定させねばという気持ちが強く、それは2人の妻や子どもたちにも伝わっていたのでしょう。

類まれな経営手腕を発揮し、「日本資本主義の父」とまで呼ばれた渋沢。生き馬の目を抜く闘いをくぐり抜けた彼も、女性に弱いという自分の弱点は自覚していたらしい。

「明眸皓歯に関することを除いては、俯仰天地に恥じない」
 
 晩年、彼は自分の人生を振り返ってそう述べています。明眸皓歯、つまり美人がらみの色恋沙汰を除けば、自分は一切恥じることのない人生を送ってきた、と。

彼の私生活を紐解き浮かび上がってくるのは、人格者渋沢栄一が「明眸皓歯」に見せた、もう一つの顔なのです。

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