全盛期のメンバーは800人…拡大する怒羅権

こうした抗争に明け暮れていた90年代前半が怒羅権の全盛期でした。私たちは怒りに任せて暴れていただけですが、やがてそれを格好いいと思う人々が出て、メンバーがどんどん増えていきました。残留孤児もいましたし、日本人もいました。

全盛期のメンバーは800人くらいに達しました。3000人いたという噂がありますが、それは正しくありません。

正直に述べると、これほどの規模になると実感が伴わず、大きな感慨はありませんでした。私を含めた古参の中核メンバーには、家族のようなとても強い結束がありましたが、末端の者のことなど知らないのです。各支部にボスがいて末端の者をまとめていますが、葛西の人間は池袋の下の者を知らないというように、関わることがありません。

そうした複雑な関係性を象徴する話として、人数が膨れ上がっていった時期に、名簿をつくろうという動きがあったのですが、数が多すぎて頓挫しています。

連絡網らしい仕組みとしては、留守番電話をつかったものが唯一存在しました。留守番電話は機種によっては、外から電話をかけて暗証番号を打ち込むとメッセージを聞くことができます。暗証番号をメンバーに配ることで、「誰々が逮捕された」「何月何日に誕生パーティーを行う」といったメッセージの共有をできるようになっていました。

すべて自発的に動く集団

怒羅権拡大の拠点になったのは、池袋にあった文芸坐という映画館でした。普段はアングラ映画がかかっているのですが、年に一度、中国映画祭をやっており、都内の残留孤児の集いの場になっていました。そこで都内各地からやってきた中国残留孤児2世が出会い、ときに喧嘩をし、ときに意気投合をし、怒羅権へと合流していったのです。

怒羅権は葛西で誕生したので、総本部は葛西怒羅権と呼ばれますが、90年頃の府中怒羅権や八王子怒羅権の誕生は、この映画館がきっかけでした。

現在も怒羅権は警察に潰されずに残っていますが、それはゆるやかな横の線で繋がった組織だからだと思います。巨大な怒羅権の中に10人から30人くらいのグループがいくつもあるという形でした。

普通の暴走族は確固たる上下関係があり、縦でつながる組織です。そのため警察が組織を壊滅させようとするとリーダーを逮捕します。しかし怒羅権は、メンバーの誰かが攻撃されたら助けにいくという原則だけがずっと存在しており、リーダーの命令で行動するのではなく、すべて自発的に動く集団なので、そうした方法は効果がないのです。

残留孤児の特権があり、強制送還できないから壊滅させられないと言われることもありますが、それはデマです。(#2へ続く)

「刀を振り下ろすと、ホースで水をまくように大量の血が…」なぜ私はヤクザの腕を日本刀で切り落としたのか へ続く

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