腹や腕を縫い、ワンカップ大関で消毒

敵対する暴走族やヤクザとの抗争もこの時期を皮切りに苛烈なものになっていきます。怒羅権は少しずつメンバーが増えていましたが、全盛期の規模には達していませんでした。それでも喧嘩をした相手は、数千人は下らないでしょう。

私たちは徹底的に暴力をふるいました。そのため、怒羅権はよく根性があると言われますが、違うのです。根性がないから、怖いから、暴力をふるうのです。とことん恐怖心を植え付け、復讐しようなどと決して思わないようにしなければ、こちらが殺されます。

私たちがいたのは残虐でなければ生き残れない世界でした。私たちは異端者として差別され、社会にも守ってもらえないことは浦安事件や朱金山事件で思い知っていました。

私たちが大怪我をすることも珍しくありません。病院にはいけないので、自分たちで治したものです。ナイフで割かれた腹や腕を縫い、ワンカップ大関で消毒したこともあります。

そんな中で私は一応医者の子でしたから、衛生兵を自負していました。怪我人が痛がって治療できないとき、まず私を殴らせます。口の中が切れて血が出ます。その勢いで処置をします。痛いとは言わせません。私も痛いのですから。

「肋骨は6本ずつ折りました。歯や指も折ります」

この頃、ある暴走族との抗争で両腕を折られる大怪我をしたことがあります。このときは流石に病院にいきました。骨が割れ、皮膚から飛び出していて、とても素人では無理だったからです。

医者は驚いていました。そして、こんなことを言いました。

「なぜ君のようなまじめそうな子がこんな怪我をするような喧嘩をしたのか」

私はまじめそうな風貌だったのでしょうか。そのときの私は胸中で、この医者をあざ笑っていました。「こんな連中が俺のことなど理解できるはずがない」と考えていました。このときは家族に知らせが行きましたが、父は何の反応も示しませんでした。

傷が治ったらすぐに復讐しました。15人で40~50人の相手チームを鎮圧し、土下座させ、1人ずつ木刀で腕を折ります。肋骨は6本ずつ折りました。歯や指も折ります。拉致して橋から河に投げ落としましたし、彼らの車は燃やしました。ヤクザが出てくれば相手の顔に任侠映画のような傷をナイフでつけ、事務所を全壊させました。

この時期の狂乱が、現在も語られる怒羅権の伝説のスタートだと思います。私が刑務所にいた頃、よく同室のヤクザからは修羅場をくぐった武勇伝を聞かされましたが、すべて可愛いものでした。