——タイミング、ですか……。

退職金もなく万事に無計画な私はうなだれた。私にはそのチャンスはなく、タイミングもすでに逸しているではないかと。

彼の合理性に圧倒されるばかりなのだが、聞けば、小出さんはもともと高校の数学の先生だった。現役時代のモットーは「学びに妥協なし」。人生の信念は「真理の追究は不断のテーゼ」とのことで、常に問題を立てて解答を導き出すアルゴリズムに生きているようである。

「勉強はひとつの習慣なんです。たとえできなくても取り組む。取り組むことで生きていく自信につながるんです。0点であっても鉛筆を握ること。やろうとする姿勢。できなくて悩む子がいれば、絶対わからせてやろうと気持ちがムラムラわいてくる」

覚書に記された退職後のモットー

彼は私の取材に備えて履歴・職歴をまとめた覚書を用意してくれていた。それによると、26年にわたって教員をつとめ、教頭、校長になり、60歳で定年。再雇用で進路指導を担当する嘱託となるが、友人に「君は数学を教えている時に輝いている」と言われ、1年で職を離れて地方の新設校の立ち上げに参加。副校長兼数学の教員として生徒指導にあたり、65歳で退職した。

「卒業生の中から東大合格者も出て学校も軌道に乗ったので、自分の役割は終わったと思いました。その先は、社会へのご恩返し。何か人の役に立って、そっと生きていきたいと決めたんです」

覚書に記された退職後のモットーは次の通り。

セカンドライフはボランティア精神を発揮、小さく社会に貢献していく人であり続ける。

「子供に甘えたくない」「そっと生きる」「小さく貢献する」……。おそらく人に迷惑をかけたくない一心なのだろう。いずれにせよ彼はモットーに基づき、来日したミャンマー難民のサポート、市民大学での数学講師、さらには観光客に近隣の自然を解説するボランティア活動に励む。最近では老人ホーム内で入居者向けに「数学講座」を開いたそうだ。

「私自身は日本の美学、びに興味があって、今、百人一首を全部暗記しようと勉強中です。和歌をすっと言えたり、解説できる人にもなりたくて。だから現役時代より忙しい感じ。もっと時間が欲しい」

ソファに座る男性と机の上のひらいた本、マグカップ、老眼鏡
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ひとりだと寂しいけど、ふたりは鬱陶しい

毎朝8時前に起床。食堂で朝食をとり、午前中は居室で読書と勉強。昼食は自炊して午後からボランティア活動に出かける。寸暇を惜しんで学ぶ「定年後」を送られているようなのだが、私にはどうしても気になることがあった。

——すみません。小出さんはひとり暮らしなんですか?

「はい」

淡々と答える彼。「奥様は……」と言いかけると、

「妻は今も自宅に住んでいます。彼女は彼女でやりたいこともあるから」