新型コロナウイルスの影響で自動車業界は危機にある。だが、トヨタ自動車だけは直近四半期決算で黒字を計上した。なぜトヨタは何があってもびくともしないのか。ノンフィクション作家・野地秩嘉氏の連載「トヨタの危機管理」。第11回は「被災地支援の原点」——。
記者からの質問に答えるトヨタ自動車の友山茂樹副社長(右)
写真=時事通信フォト
記者からの質問に答えるトヨタ自動車の友山茂樹副社長(右)=2019年2月6日、東京都文京区

阪神淡路大震災から始まった

トヨタの危機管理で支援活動が本格化したのは1995年に起きた阪神淡路大震災からだった。

それまでにも災害は起こっていたけれど、協力会社が被災したとしても、自分たちの力で復旧できるレベルだった。また、トヨタも危機管理のノウハウが確立していたわけではなかった。

阪神淡路大震災の時は被災したグループ会社の工場、協力工場が多数あったので、支援をしようとなったのである。そして、日ごろからトヨタ生産方式の指導で工場を訪れていたことのある生産調査部のメンバーが派遣されることになった。

トヨタの支援活動の原型ができたのがこの時であり、壁管理と白板を使う方法もこの時に方式が始まった。

チーフ・プロダクション・オフィサーの友山茂樹は「あの時、支援の原則ができました」と思い出す。

――阪神大震災の当日でした。すぐに支援に行こう、と。ダイハツの池田工場、住友電工の伊丹工場が被災したと一報が入ったからです。

僕は上司の林南八さん(生産調査部の鬼と呼ばれた男)を乗せて、もう1台は当時の部下が運転して……。全員で4名が先遣隊として現地に向かいました。

南八さんは次長で、僕は係長でした。朝、出社したら、南八さんが「1時間やるから、支度してこい」と。2~3泊くらいかなと思ったので、下着を3泊分だけ用意して、会社に戻りました。すると、大部屋で対策会議をやっていて、壁管理も始まってました。

壁が崩落し、天井は落ちていた

僕らは大阪にあるダイハツの池田工場、それから兵庫県伊丹市の住友電工を目指したわけです。出発は昼頃でしたから、地震があってからまだ数時間しか経っていなかった。

途中のドラッグストアで、ペットボトルの水、ウェットティッシュ、それから生理用品を大量に仕入れて積み込んでいきました。その3つが足りないという情報が入っていたんです。大阪近辺ではすでに渋滞が始まっていたので、僕らは本部に連絡して、以後の物資運搬は元町工場(愛知県)からヘリコプターを飛ばすことにしました。先遣隊ですから、絶えず、本部に情報を入れながら、現地に向かったんです。昼頃に出発したのに、ダイハツの池田工場に着いたのは真夜中でした。

まったくの惨状でした。工場のハンガーから車が落下していたり、機械が倒れていたり……。ただ、ダイハツの人たちは「自分たちで復旧できます」と意気軒高でしたね。そこで、僕らは翌朝早く住友電工へ行きました。ダイハツもひどいと思ったけれど、伊丹の工場はもっとひどかった。壁が崩落し、天井が落ち、焼結金属(金属の粉を固めたもの)の金型を保管していた倉庫は今にも崩れそうな様相を呈していたんです。