第2次世界大戦末期。SUBARU(スバル)の前身、中島飛行機の創業者・中島知久平は、超大型戦略爆撃機「富嶽」の開発を進めていた。それはアメリカ本土を爆撃できる飛行機を400機製造するという壮大な計画だった。なぜ「富嶽」は幻に終わったのか――。(第3回)
写真=GRANGER/時事通信フォト
第2次世界大戦期の日本での空襲の様子

富士山の名を冠した幻の超大型爆撃機

中島飛行機が製造した飛行機のうち、創業期の頃のそれは設立者の中島知久平(ちくへい)の考えが形になったものだった。その後、マリー技師がやって来てからはフランス、ニューポール社の影響を受けたものに変わる。そして、初めて陸軍に制式採用された高翼単葉の九一式戦闘機からは小山悌(やすし)がエース設計者となり、彼のアイデアが全体を引っ張っている。

提供=SUBARU
中島知久平氏

つまり、知久平が発想したのは創業当初だけで、その後は陸軍、海軍が仕様を決め、それに対して小山たち技術者が出した回答が中島飛行機製の戦闘機であり、爆撃機だった。

だが、大戦末期に開発を始めたある1機だけは知久平が主唱したものだ。実際に空を飛ぶことはなかったが、知久平が「これを作る」と声を上げたもので、コードネームは「Z機」。のちに富嶽と名付けられた超大型戦略爆撃機である。

日本軍がガダルカナル島から撤退し、イタリアが連合軍に無条件降伏した1943年、知久平は『必勝戦策』と題した論文を執筆し、東条英機首相と軍の幹部たちに献策した。

アメリカ本土を爆撃、ドイツ経由で戻る壮大な計画

『必勝戦策』の趣旨は次のようなものである。

「アメリカの工業力にもはや精神力だけでは到底、対抗できない。

時を経ずにアメリカから大型爆撃機が飛来して、本土を空襲、日本は焦土化する。その前に大型爆撃機を設計し、アメリカ本土へ飛ばし、アメリカから旅立ってくる飛行機の飛行場を破壊する必要がある」

アメリカ軍が初の日本本土空襲を行ったのは1942年4月。空母からの発進だった。そして、本格的な戦略爆撃は44年から始まる。飛行場はアメリカ軍が占領していたグアム島などマリアナ諸島である。B29のような超大型爆撃機は空母からは発着できないので、どうしても陸上の航空基地が必要だった。知久平の論文にはそういった点が欠落していた。知久平の目的はたったひとつ。それは「アメリカ本土を空襲する」ことだった。

彼は航続距離が非常に長い、どこまでも飛んでいける飛行機を想像していた。頭の中にあった超大型爆撃機「富嶽」はアメリカ本土を爆撃し、そのまま大西洋を横断、ドイツに着陸し、補給を受けてからもう一度、アメリカを爆撃して、再び日本に戻ってくる飛行機だったのである。あるいはドイツを飛び立った後、ソ連を空襲し、日本に戻るというルートも想定していた。

壮大ではあるのだけれど、当時の技術力では実用化は不可能だったろう。仮に着手したとしても、その頃の日本には超大型爆撃機を作るだけのジュラルミンや航空燃料を入手することはできなかった。