介護の日々のなかでも最も大変だったこと

父が家に戻って安心したのも束の間、以前からよくぶつかっていた、父母と妹の言い争いが再燃し始めました。どんどんエスカレートし、私の出張先にまで、母や妹から入れ代わり立ち代わり真夜中に電話がかかってくるようになりました。

妹は、小さなころから身体が弱く、両親に対してもいろいろな思いがあるようでした。子どもの頃に親の言動を理不尽だと感じたまま育つと、大人になってもその思いは消えず、対等な立場や自分が面倒を看る立場になった際に、一気に不満や確執が露呈するのかもしれません。これには、本当に悩まされました。切っても切ってもかかってくる電話。ICMCI(国際公認経営コンサルティング協議会)の世界大会がソウルで開かれたおり、日本人として初めて発表することになった直前にまで、母からの電話がかかってきたことを思い出します。海外だろうが、仕事中だろうが、働き手のその時の事情に心配りする余裕がなくなってしまっていたのです。

介護の段階になって、それまでの家族関係の歴史が大きく影響してくることを実感しました。そして介護においてもっとも大変なのは、家族の積もるストレスとやり場のない気持ちを受けること。介護をする側も共倒れにならぬよう、ストレスケアが必要です。

私は本格的な介護と仕事の両立が始まってからは、モチベーションを下げないためのメンタルデトックスを心掛け、温泉地に出張した際は1時間でも温泉につかってリフレッシュして帰路につく、あるいはアロマセラピーを取り入れるなど、自分を元気づけることに注力していました。なぜなら(家長でもある)私自身が倒れてしまえば、介護はおろか家族全員が崩壊してしまうからです。

母の認知症のはじまり

ほどなくして、一番元気だった母が次第に問題行動を起こすようになりました。認知症が始まったのです。父と妹の言い争いが絶えぬ中、バッグに財布や下着等を詰めて「ここは私の家ではないわ」と、家を出ようとします。ケアスタッフの方から出張先の私にSOSの電話がかかってくるようになり、さすがにこれには困りました。

しかし驚いたことに、「心配で私が仕事に行くことができないから、家を出ないで欲しい」と頼み込むと、母の徘徊はピタリと止まったのです。母は長年教師として働いており、女性が働くことへの意識や応援する気持ちが強いためか、玄関ドアに貼った「祐子が困るから、家を出ない」と書いた貼り紙を見るたび、母は家出するのをやめてくれました。

認知症と一口に言っても、その時の状況や周囲の人の対応次第で驚くほど回復するものだと体感しました。認知症の症状は日々変動が激しく、本人のこだわりや琴線に触れると、ぴたっと症状が収まることもあります。辛抱強く、コミュニケーションを取り続けることが大切でした。