誰の中にも冷淡で利己的な自分がいる

あるいは、自分の子どもは可愛くても、他人の子どもには同じ感情は持たないという部分もあるのかもしれない。人間とは、当事者意識や、社会的・協調的であろうとする努力を失うと、本来冷淡で利己的な顔をしている。きっと私も、何かの側面においてそうなのだ。

例えば先日、混雑時間帯の急行電車に揺られて仕事に向かう時、大型ベビーカーに子どもを乗せてそのまま混雑した車内に乗り込み、スマホで誰かとチャットを繰り広げるお母さんを見て、彼女にも今日は何か理由や事情があるのかもしれないとわかりつつも、冷めた視線を投げかけている自分に気づいてハッとした。

私の中にだって、狭量なNIMBY予備群は存在している。そうか、私も自分の子どもが大きくなったことで、小さい子どもへの関心や共感が薄まってきてしまったのかもしれない。とはいえ、誰もが一人でこの世に生まれてきたわけでも、一人で大きくなったわけでもない。「子どもは社会の宝」とか政治めいた表現をする以前に、あの大声で泣き大人にあやしてもらう子どもこそ自分自身のかつての姿であると思えば、子どもを「イレギュラーな迷惑者」と見なして自分のエリアから排除しようと“日本的な”NIMBYネスをあからさまに外に出す人たちは、何か人間的に大事なものを忘れてしまった自らの姿が見えていないような気がする。

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