反対を押し切り、高校時代にアメリカ留学

「家族中、親戚中そしてご近所中に反対されましたが、諦めきれず。2年間、毎日、両親に手紙を書きました。アメリカに行きたい理由と行ってやりたいこと。お年玉やお小遣いは全部、郵便局に貯金しました。当時は金利がよかったので、けっこう貯まったように思います」自分も留学したい。その思いを伝えるが、壁にぶつかる。現在のように海外旅行や留学が普及していない時期。「女の子がそんなところへ行って大丈夫か?」「経済的に無理」と言われた。

両親の説得に成功し、高校2年生だった仲條さんが留学した先はアメリカのアイダホ州。しかし1980年代、現地では日本をよく知らない人も多かった。

「『これは冷蔵庫というものだけど、知っているか?』と聞かれて。『知ってます』と答えると『君はアメリカ生活が長いからね』なんて言われるんです。そのアメリカ人が見せる冷蔵庫は日本メーカーのものだったりする。相手は日本企業の技術力を知らないわけです。こういう経験を通じて『やっぱり情報は大事だな』と思いました」

帰国後、大学進学を希望した仲條さんは、再び家族の反対に直面した。留学する代わり、大学へは行かないという約束だったからだ。「俺が大学を辞めるから」と盾になってくれた兄、そして学費を出してくれた祖母のおかげで進学できた。その後も頑張り続ける原動力になったのは「周囲に支えてくれる人が、必ず現れること」だという。

テレビのアナウンサー時代は失敗ばかり

「最初の3年くらいは、毎日怒られていました。低気圧を“低血圧”と読み間違えたり、マラソン選手のインタビューで『おめでとうございます、○○選手』と呼びかける際、相手の名前を忘れてしまったりしたこともあります」キャリアのスタートはテレビのアナウンサーだった。

しかし、叱られる辛さより、ゼロから新しいものを生み出す喜びが勝っていた。例えばブルームバーグ・テレビジョンでは駆け出しの頃、こんな経験をした。

「取材に行き、映像の編集をして、日銀の外観写真が必要なら許可を取り、仕事の時間の合間を縫って自分で撮影に行く……。ベンチャー企業ですから、人の配置や全体のオペレーションまで考える。『こうしたら良くなると思います』と、上司に改善案を提案したりしました。20代で経験したことは、その後、さまざまなビジネスに携わる上でとても役に立っています」

こうした経験を「勉強の機会」と捉え、真正面から取り組むところに、キラキラした経歴だけからは読み取れない、真面目で努力家の面が現れている。