「共働き」が少ない時代、専業主婦には不向きな母を持ち

国旗のついたピックやらカラフルな小物で飾り立てたデザートやらを見せて「見て! 今日はイチゴとオレンジなの。やったー」と可愛いリボンのついたおさげを揺らして喜ぶ友達の様子に、ああ、ママの手塩にかけられて育つ可愛い女の子ってこういうことなんだなぁ、と、ざん切りショートでメガネの学級委員長の心には幼いながらに刻み込まれた。そして、自分はその部類ではないのだと。横から私の絶望弁当をのぞき込んだ友達が「環ちゃんのお弁当、それだけ?」「環ちゃんのお母さん、共働きだもの」と言うのを聞くと、「共働き」という言葉がそれこそ絶望的に寂しく響いた。

ウチの母は当時には珍しく理系高学歴で、子育てしながら働く母親。奥さん同士の見栄の張り合いのようなものに冷淡で非常に合理的というか、いやもっと単純に、家事に向いていない人だった。専業主婦には非常に不向きだが、他のこと、特に仕事ならものすごく有能で、先進的な視点を持ち、人心掌握にも長けている。でも、そんな母に不得意なことを執拗に押し付けてくる“良妻賢母”とか“家庭的”なる保守的な価値観に対しては、憎しみさえ抱いている節があった。よくよく考えると、私のお弁当が絶望的だったのは母が共働きだったからではなく、母がまったく料理に興味がない人だったからなのだが、家族のために良妻賢母として生きる専業主婦が主流だった当時、「共働き」という言葉には有無を言わさぬ「非家庭的」との批判が込められていた。

その分、父がこれまた理系高学歴のエンジニアながら非常に家事に向いている人で、休日になると家中にきちんと掃除機をかけ、ゴミ出しをし、洗濯ものを干し、魚屋さんの店先で見つけた新鮮なイワシを器用に南蛮漬けにしたりする。土曜のお昼の冷たくてツルっとしたおそうめんや父が好きな玉ネギの多い野菜炒めなど、なぜだか、父の料理は幸せな味の記憶とともに覚えている。でも毎朝のお弁当の担当は、低血圧鞭打ちの絶望母なのだ(いまは感謝しているけれど!)。