孫正義は、なぜ日本を代表する経営者となりえたのか。どうして失敗を重ねながらも、最後には成功をつかみとることができるのか。その答えの鍵は「人たらし」にある!超一流ともいえる名ゼリフの数々を、関係者が証言する。

「あの新幹線の車内でのことは一生忘れられないでしょう。前日からの京セラとの交渉に疲れ果て、あの気丈な孫さんがポツリ、『今ならやめてもいいよ』と言ったのですから。孫さんとは数々の事業を通して30数年来のお付き合いがありますが、あんなに弱気な発言は、このときだけでした」

フォーバル会長の大久保秀夫は、1986年12月、京都での商談をこう回想する。

フォーバル会長 大久保秀夫氏

そもそも2人は互いの会社の課長の引き合わせで出会った。大久保31歳、孫28歳のときだった。数カ月後には、自由化された通信事業をビジネスチャンスととらえ、「日本の通信費用を安くするために何か立ち上げよう」と意気投合。以来1年余、毎晩のように互いの業務を終えると渋谷・道玄坂のファミリーレストランに集まり構想を練った。

その成果が電話回線選択アダプター「NCC・BOX」である。この装置は、NTTを含め、新たに誕生した新電電と呼ばれる複数の通信キャリアの電話料金のうち一番安い回線を自動的に選ぶもの。2人はこれを無料で配布し、通信キャリアからロイヤルティを得ようと考えた。

2人は、DDI(第二電電)に売り込みにいくことにした。京セラを一代で築き上げ、DDIオーナーでもある稲盛和夫なら、国民の利益のためにという彼らの志を理解してくれるだろうと考えたからだ。

京セラの会議室には、稲盛はじめ幹部たち20人ほどが待ち構えていた。孫の説明に、会長の稲盛は即座に「うちが50万個買います。ただし、当社にだけ売ってください」と切り出す。アダプターの価格を1万円とすると50億円もの商談になる。

だがそれは、2人の志とは違う。京セラにのみ売ったのでは、DDIだけに有利な使われ方をしてしまう。売る、売らないで交渉は難航し、7時間を超えた。昼食も夕食もとらずに続く執拗な説得に疲労困憊し、最後は売るという書類にサインしてしまう。