去年、看護師へ向けた新雑誌『オン・ナーシング』が立ち上がった。それを91歳にして企画・責任編集した川嶋みどりさん(92)は「これまでは看護師が矛盾や疑問を外部に発言することはなかったけれど、現場から大きな声を出さなきゃダメなの。批判されることを怖れていては、現状はいっこうに変わらない。おかしいこと、間違っていることは山ほどあるから、もっと声に出していってほしい」という――。

「病院スト」で結婚は自由になったものの…

日本赤十字看護大学の名誉教授・川嶋さん(92)が看護師として現場で働いていた1950年代の頃は、看護師=独身のまま働き続ける人が大半だった。日赤は全寮制で3交代の厳しい勤務で、とても結婚を考えられるような環境ではなかったからだ。

日本赤十字看護大学 名誉教授 川嶋みどりさん。「東京看護学セミナー」世話人代表。1995年第4回若月賞、2007年第41回ナイチンゲール記章受賞。
筆者撮影
日本赤十字看護大学 名誉教授 川嶋みどりさん。「東京看護学セミナー」世話人代表。1995年第4回若月賞、2007年第41回ナイチンゲール記章受賞。

しかし、そのうち病院内でも、労働条件への不満の声があがるようになった。

「ちょうど新制高校の卒業生が新人で入ってきて、『看護婦は結婚して子どもを産んだら、仕事を辞めるっておかしいんじゃないですか』と言い始めたのです」

苛酷な労働条件は社会問題化し、1959年から60年にかけて、「病院スト」といわれる医療統一闘争が全国へと広がっていった。これを契機に看護師の全寮制が廃止され、通勤や結婚も自由になった。

しかし、長時間労働や低賃金といった厳しい労働条件が変わることはなく、医療技術の進歩によって複雑になる治療処置は看護本来の仕事にしわ寄せをきたしていく。

自信や誇りを失って退職する看護師が後を絶たなくなった。

改めて問い直した「看護とは何か」

川嶋さんも二児の母となり、自身の働き方を模索する日々が続いた。同期と共に院内に保育室をつくるなど、結婚して出産した女性も働きやすい環境を整えられたのは良かったが、川嶋さんが一番悩んでいたのは、自分の仕事についてだった。

勤務する耳鼻咽喉科外来は診療と手術が中心で、看護師は大勢の患者さんに対応しながら、その合間を縫って手術の準備や介助はじめ膨大な雑用をこなさなければならない。これは看護なのか? と思うような業務が一日の多くを占め、専門職としての自負や誇りを失いそうになる日々だったという。

【連載】Over80「50年働いてきました」はこちら
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「このころ『看護とは何か』『看護師とは何か』を改めて自分に問い直す必要性を感じました。そのためには、あらためて看護学を学ばなければいけない、と。だから、当時発売されていたすべての看護専門誌を買って、通勤電車の中で読んでいました。そして病院へ行くと、同僚たちに『ねえ、このこと知ってる? みんなで調べてみない?』と声をかけるようにしました」

やがて都内で看護学校の教員をしていた同級生たちと結成したのが「東京看護学セミナー」だ。参加者が自由に話し合い、看護とは何か、課題は何かなど、具体的な経験の中から探り出していく。セミナーでの学習は「教室のない大学」と位置づけ、より多くの看護師がそこでの学びを共有できるような発信も心がけた。

「あの頃は、もう無我夢中でしたね。産休を2回取ったきり、休んでなかったと思います」

看護現場の「問題の本質」は変わっていない

そんな川嶋さんが職場を離れる決意をしたのは、ちょうど40歳になったとき。川嶋さんがセカンドステージで取り組んだのは、「後進の教育」だった。

埼玉県三郷市に新設される病院で、看護職員の教育プログラムに携わった後、1984年に日本初の“民間の臨床看護学研究所”を開設。すると、川嶋さんの噂を聞いたと各地から研修の応募があり、九州、四国から飛行機で通う参加者も出るほどの人気となった。

川嶋さんが現場から教育へと駆り立てられた胸中には、看護自体の在り方が変質していくことへの危機感があったという。

「看護の現場にある、問題の本質は全然変わっていないんです。それは、人手不足で仕事に忙殺され、看護本来の役割をなかなか果たせなくなっていること。看護師には、2つの業務『療養上の世話』と『診療の補助』があります。医師の指示に従って行う採血や点滴、医療機器の操作などが『診療の補助』で、看護師が主体的に患者さんをケアするのが『療養上の世話』です。長年にわたって『診療の補助』にヒューマンパワーを割かれ、思うような『療養上の世話』が叶わない環境に、私たちは葛藤を抱えてきました」

数々の功績により、ナイチンゲール記章を受賞。写真右は受賞式にて(第41回 2007年)。左:ナイチンゲール記章。
写真提供=川嶋みどりさん
数々の功績により、ナイチンゲール記章を受賞。写真右は受賞式にて(第41回 2007年)。左:ナイチンゲール記章。

職業としての看護

近年では、医師が行う医療行為のうち38項目を「特定行為」と定め、看護師に移譲する研修制度が始まった。それによって看護師が診療の補助を超えて、さらなる医業を行っていくことに川嶋さんは強い疑問を抱いている。

「本来、看護師が主体的に行う『療養上の世話』とは、患者さんの生活行動を援助することです。ナイチンゲールも『職業としての看護は、小さなこまごまとしたことから成り立っていて、その中で高度の優秀性が求められる』と言っています。まさに食べたり、トイレに行ったり、眠ったりすることは誰にでもできそうですが、高齢になっても、その人が自分でやっていたのと同じようなレベルで援助するのは大変なこと。実は高度の専門性が要求される援助で、これこそが職業としての看護なのですね」

逃げたり避けたり、あきらめたりしない

川嶋さんは2022年夏に自ら創刊した『オン・ナーシング』でも、その重要性を説いている。「療養上の世話」の重要性を再確認する出来事に、現場でも、現場を離れてからも、これまで幾度も出合ってきたからだ。東日本大震災の被災地で仮設住宅に住んでいた70代の男性との出会いも、そのひとつだった。

一人暮らしの男性は、高血圧でも酒や煙草をひかえず、周囲がいくら病院への受診を勧めても心を閉ざし、聞く耳を持たなかったという。そこで川嶋さんが訪問した際、「ちょっと失礼します」と言って、紫色になった手を黙って30分ほどさすり続けると、指先が少しずつ温かくなっていく。次は冷えた足だとさすっているうちに、彼は自らぽつぽつと被災したつらい心情について語りだし、帰り際には、部屋にあったギターを照れながら弾いてくれたという。

「看護の本質とは、看護師の手を用いるケアにあります。相手の思いに寄り添いながら、直接肌に手をふれることで、その人が持っている自然治癒力を引き出すことができるのです」

それは川嶋さんが看護師になりたての頃、トシエちゃんという瀕死の少女からも学んだこと。お湯とタオルと石鹸を使い、彼女の身体をきれいに拭くことで生きる力を取り戻す姿を見たことが原点にある。

今、90代になっても、川嶋さんは健筆をふるい、看護界に叱咤しった激励を送る。いかに風当たりが強くてもひるまず、困難と闘い続けてきた姿勢はなお揺らがない。

「今もふくめ看護界で過ごした日々は闘いでした。でも、困難こそが、私のハードル。乗り越えられると喜びがあるから、人生は楽しいの。だから私は困難に直面したら、いつでもかかってこいと受けて立つ。逃げたり避けたり、あきらめることなく、乗り越えて見せるという気概をもつことが大事なのです。今現場で働く看護師のみなさんも、これまでは矛盾や疑問を外部に発言することはなかったと思いますが、現場から大きな声を出さなきゃ、ダメなの。批判されることを怖れていては、現状はいっこうに変わらない。おかしいこと、間違っていることは山ほどあるから、もっと声に出していってほしいのです。サイレント集団から脱皮しなければ」

看護の未来を考えると、働く現場をもっと良くしていかなければと思う。

「だから、まだまだ死ねないの」と笑う川嶋さんの目は少女のように輝き、そしてとても力強い。