植物学者・牧野富太郎の学歴は小学校中退。それもあって東大助手となりながら歴代の上司である教授たちから冷たく扱われてきた。研究者の俵浩三は「牧野は自分を助手として正式採用してくれた松村任三教授とも円満な関係を築けなかったが、不撓不屈の実力主義で研究を続けた」と書いている――。

※本稿は、俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)の一部を再編集したものです。

矢田部の後を継いだ松村教授は牧野を助手として採用

矢田部良吉の後をついで東大植物学教室の教授となったのは松村任三である。松村は牧野の実力を高く評価しており、『日本植物志図篇』を「日本帝国内に本邦植物志図篇を著すべき人は牧野富太郎氏ひとりあるのみ」と激賞してくれた。そこで明治26年(1893)、松村は牧野を助手に採用した。牧野はここで初めて部外者でなく、大学組織の正規の一員となったのである。

松村は安政3年(1856)常陸国(茨城県)の生まれで牧野より6歳年長である。大学南校(東京大学の前身)で法律学を修め、小石川植物園に奉職、そこで矢田部から植物学の手ほどきを受けた。明治19年(1886)から21年にドイツへ留学し、本格的な植物学を学んだ。松村には『植物学教科書』(1892)、『普通植物』(1901)などの著書があるが、とくに植物分類学を専門とし、『日本植物名彙』(1884)、『改正増補植物名彙』(1895)、『帝国植物名鑑(上下)』(1904~21)などが主な業績とされている(図表1)。

松村任三『植物学教科書』(1892)と『改正増補植物名彙』(1895)
出典=『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

松村は植物の名前を一覧表にし、牧野の学術雑誌にダメ出し

そのころは日本の植物の戸籍調べがまだ不十分だったので、植物の和名、学名、漢名を考証して一覧表にした労作が『日本植物名彙』である。そのころ日本の植物学は日進月歩で、「検出発見する所の種類いよいよ増加し、種類の増加するに従って之を識別するの方法に於いても又大いに便利を得ていよいよ精密を極め」という状態なので、つぎつぎに改正、増補を重ねたのが、一連の「名彙」「名鑑」である。

このような植物分類学の分野での松村と牧野は、教授と助手という上下の関係であると同時に、研究仲間であり、ときには学問上のライバルだった。当然のこととして松村と牧野は植物分類の考え方で意見の違うことがあった。

牧野によると、「松村任三先生は、次第に私に好意を示されなくなった。その原因は、私が植物学雑誌に植物名をしばしば発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の名前と抵触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌にあまり書いてはいかんと言われた。……このように松村先生は、学問上からも、感情上からも、私に圧迫を加えるようになった」(『牧野富太郎自叙伝』)というのである。

「師弟関係ではないし、松村氏に気兼ねする必要はない」

しかも牧野は自信家である。「私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係にあるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理屈はないと、私は相変わらず盛んにわが研究の結果を発表しておった。……それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に対して私の悪口さえ言われるという風で、私は実に困った。これが10年、20年、30年と続いたのだから、私の苦難は一通りではなかった」(『植物学90年』)ということで、松村と牧野の間はしっくりしないものとなった。

松村教授の植物学講義を聞いたひとりに原田三夫がいる。原田は雑誌『子供の科学』を創刊するなど、科学知識の普及に大きな足跡を残した、日本最初の本格的な科学ジャーナリストである。松村の講義は「とかく脱線して人の噂や世間話になり、気に入らぬ人は名を伏せて非難した。『ばばあ育ちのわが儘者で、頼んだことをやらない』といったのは、牧野富太郎先生のことであった」(『思い出の70年』)と回想している。

松村は「牧野は助手なのに頼んだことをやらない」と悪口を

松村にしてみれば、牧野は自分の助手であるから、思いのままに使いたいが「頼んだことをやらない」我がままな性格だし、牧野にしてみれば、「師弟の関係にあるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかった」というのだから、円満な人間関係を保つことは難しかっただろう。

牧野富太郎像 牧野記念庭園(東京都練馬区)
写真=時事通信フォト
牧野富太郎像 牧野記念庭園(東京都練馬区)

牧野が助手だったころ、同じように正規の教育を受けない東大の助手に平瀬作五郎がいた。平瀬は安政3年(1856)越前国(福井県)の生まれ。絵画が得意なので画工として、植物標本の絵を描いたり、実験を手伝っていたのである。しかし努力家の平瀬は自らも顕微鏡をのぞいて研究し、研究者の池野成一郎の好意的な協力を得ながら、ついにイチョウの精子発見という画期的な業績をあげた。池野も同じ時期にソテツの精子を発見した。

この2人によるイチョウとソテツの精子発見は、当時の世界を驚かせる業績だった。なぜ世界を驚かせたのか、その意義は、簡単にいえば次のようなものである。ごく下等な生物を除き、生物の多くは精子と卵子が合体して子孫を残すのが基本である。生命は海のなかで生まれ進化したため、精子が泳いで卵子に到達するのが普通で、動物ではもっとも進化した人間でも、その名残をとどめている。

世界的な大発見をした同僚の画工も東大から左遷された

しかし植物では、陸に上がったコケやシダの段階では、まだ精子が認められるものの、花を咲かせる高等な植物では、オシベを離れた花粉がメシべに到達すると、メシベのなかに花粉管を伸ばし、精子がなくても受精できる仕組みに進化してきた。ところが、イチョウやソテツには精子が発見されたため、これらの裸子植物は、コケやシダと、花を咲かせる被子植物の中間にあるという、植物系統の位置づけが、初めて明らかにされたのである。牧野は、その平瀬について次のように書き残している。

松村任三(1856-1928) 植物学者(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
松村任三(1856-1928) 植物学者(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons
従来は平凡な松柏科に伍していたイチョウが、たちまち一躍して、独立してイチョウ科ができるやら、イチョウ門ができるやら、イヤハヤ大いに世界を騒がせたもんだ。そして、この精虫を始めて発見した人は、東京理科大学植物学教室に勤めていた、一画工の平瀬作五郎であって、その発見は実に明治29年(1896)の9月で、……こんな重大な世界的発見をしたのだから、ふつうならむろん平瀬氏は、易々と博士号をもらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く、底には底があって、不幸にもその栄冠をかち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって、江州は琵琶湖畔にある彦根中学校の教師として遠く左遷される憂き目をみたのは、あわれというも愚かな話であった。(『草木とともに』)

『近代日本生物学者小伝』によれば、平瀬が大学を退職して彦根中学校へ就職したのは、精子を発見してからわずか1年後である。世界的な業績をあげながら、なぜ退職したのか。その理由はよくわからないが、大学のなかで平瀬の研究を高く評価する人々と、助手の画工が教授を上回る立派な業績をあげたことを快く思わぬ人々が対立したため、平瀬は居心地が悪くなって「自分さえ身を引けば丸く納まる」と判断し、身を引いたのではないか、とされている。

牧野は学歴がなくても不撓不屈の精神でエリートをしのいだ

俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)
俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

当時の東大教授はエリート中のエリートであり、牧野や平瀬は非エリートである。現在の官庁や大会社にも学閥や、キャリアとノンキャリアの対立があるが、非エリートやノンキャリアにとっては、平瀬のように考えて行動するのもひとつの生き方である。

しかしまた、牧野のように「氏に気兼ねをする必要も感じなかった」と、不携不屈の実力主義で頑張るのも、またひとつの生き方である。日本の社会全体のなかでは、非エリート、ノンキャリアの方が圧倒的に多いから、多くの人にとっては、牧野のように「横綱と褌かつぎ」の勝負に堂々と立ち向かう姿は、自分では実現できない夢をかなえてくれる代償満足を与えてくれることになり、また弱者が勝ってほしいとの判官びいきに結びつく。

牧野が大衆的な人気を保ち続ける鍵のひとつが、ここにあるといえよう。