信長の次男で戦国の世をサバイブし織田家の血筋をつなげたものの、あまり評価されることのない信雄。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「大河ドラマではかなりの愚将として描かれているが、信雄は秀吉と家康の間を取り持つなど、政治的な調整力があった。天下人となった秀吉の命令に逆らったこともあり、度胸はあったのではないか」という――。

「どうする家康」では小牧長久手の戦いでパニックに

織田信雄のぶかつは、天下統一目前にして、本能寺で散った織田信長の次男です。大河ドラマ「どうする家康」においても、信雄が登場していますが、信長の子とは思えないほどのダメっぷりを振りまいています。例えば、第31話「史上最大の決戦」では、羽柴秀吉により安土城から追放された信雄は、徳川家康に秀吉打倒を持ちかけます。

織田信雄画像・総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
織田信雄画像・総見寺蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

そして、いよいよ、秀吉方と信雄・家康連合軍は決戦ということになるのですが、信雄がたのみとしていた武将・池田恒興は調略され、秀吉方に付いてしまいます。犬山城を落とされ、窮地に陥る信雄と家康。そうした状況となっても、松本潤さん演じる家康は冷静に振る舞っていましたが、浜野謙太さんが演じる信雄は、パニックとなり、右往左往。ついには家康から「総大将が狼狽うろたええるな。信長の息子じゃろ。しっかりせえ」と一喝される始末。家康に怒られた信雄は「はい」と返事し、おとなしくなりました。

こうした描写に象徴されるように、信雄はどちらかと言うと「愚将」「駄目坊ちゃん」としてのイメージで、時代劇・小説などで語られてきたように思います。では、実際の信雄は、どのような武将・大名だったのでしょうか。

幼名は「茶筅丸」、長兄・信忠の下で合戦にも参加

本題に入る前に、信雄の前半生を述べておくと、彼は、永禄元年(1558)に信長の次男として生まれました。母は、尾張国の豪族・生駒氏の娘と言われています。信雄の幼名は、茶筅ちゃせんまる。茶筅とは茶の湯でお茶をたてるときに使う道具のことですが、髪の毛を結ったら、茶筅のようになりそうだからという理由で、そうした幼名を付けられたとも言われています。永禄12年(1569)、父・信長は、伊勢の北畠具教・具房父子を攻めますが、和睦。和睦の条件は、次男・信雄を北畠具房の養子とすることでした(つまり、いずれは、信雄に北畠家の家督が譲られることになります)。

こうして、信雄は北畠氏を称することになるのです。さて、その後、信雄は信長や兄・信忠が行う数々の戦に参加しています。例えば、天正2年(1574)の伊勢長島攻め、天正5年(1577)の紀州征伐などがそうです。そうした戦で、信雄がヘマをやったとか、愚将ぶりを露呈させたという話は『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)などには見えません。

勝手に伊賀を攻め、信長に「無念の極み」と叱られる

しかし、天正7年(1579)9月、信雄のあるミスが『信長公記』には書かれているのです。信雄は、信長に無断で、伊賀国に兵を出し、伊賀衆を討とうとしたのでした。勝利したなら良かったものの、大敗。柘植三郎左衛門(柘植保重)という武士は討死してしまいます。信雄の勝手な行動を聞いた信長は、怒りの書状を我が子に送ります。「上方に出陣しないで、勝手に伊賀に兵を出すなどということはあってはならない」という怒りの手紙です。

今回、伊賀の地で大敗したそうだが、これは天の道理に反することで正に天罰と言えよう。その理由は、信雄が遠国へ遠征すれば兵達は疲れ果てるというので、つまり、隣国で合戦となれば遠国へ出兵せずに済むという考えに引きずられ、もっと厳しく言えば、若気の至りでこうなったということであろうか。

まことに残念なことだ。上方へ出陣すれば、それは天下のためになり、父への孝行、兄・信忠への思いやりともなるのだ。そして巡り巡って自分の功績になるではないか。

当然だが、今回、柘植保重およびその他の武将を討ち死にさせたのは言語道断、けしからぬことである。

いつまでもそのような考えなら、親子の縁を切ることになると思うがよい。なお、詳細はこの書状を持参する使者が伝えるであろう。

信長 織田信雄殿

太田牛一著『現代語訳 信長公記』(訳:中川太古/新人物文庫)

父・信長に「親子の縁を切る」とまで言われた

信長は信雄に「若気の余りに伊賀に出兵したのではないか」「無念の極み」と非難しています。この時、信雄21歳。確かに若いといえば若いです。伊賀国名張の住人から、信雄方に付くので伊賀に出兵してほしいと言われたとされますが、伊賀の惣国一揆を瓦解がかいさせ、伊賀を領国化しようという野心が、信雄を伊賀侵攻に走らせたのかもしれません。

絵師不明「京都本能寺合戦」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
絵師不明「京都本能寺合戦」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

信長の信雄への手紙を見ると「柘植保重をはじめとして、大事な武将たちを討死させたことは言語道断」と敗戦にも怒っているのですが、どちらかと言うと、上方へ出兵せずに、無断で伊賀に兵を出したことに怒っているように思えます。兄・信忠は、反旗を翻した摂津国の荒木村重の討伐に出陣していたのです。それはさておき、信雄の心がけ次第では「親子の縁を認めるわけにはいかない」とまで、父・信長に書状で言われたことは、信雄にとって衝撃だったでしょう。

反省したのか第二次天正伊賀の乱では大軍を率いて勝利

この第一次天正伊賀の乱の敗戦と信長の叱責が、信雄の「愚将」イメージに大きな影響を与えていると推測されます。信長のキツい叱責に信雄は反省したのでしょうか、親子の縁は切られることはありませんでした。そればかりか、天正9年(1581)9月には、信雄を伊賀国に差し向けています。息子にリベンジの機会を与えたと言えるでしょう。大軍をもって、伊賀に侵攻した信雄は、敵方を次々と討ち破り、伊賀平定に成功したのです(第二次天正伊賀の乱)。信長も戦果に満足したはずですし、信雄も雪辱を晴らした気分だったと思われます。

しかし、その翌年(1582年)6月、信長は本能寺の変で、家臣・明智光秀により、討たれてしまいます。信長没後、光秀を討ち、天下の覇権を握ろうとしたのは、羽柴秀吉でした。当初は秀吉と組んで、弟・織田信孝(信長の3男)を没落させた信雄ですが、天下人たらんとする秀吉との関係は徐々に悪化していきます。

小牧長久手の合戦で信雄は家康よりも先に秀吉に降伏

秀吉と疎遠になった信雄が接近したのが、徳川家康でした。信雄と家康は共謀し、ついに秀吉との戦い(小牧長久手の合戦)に踏み出すのです(1584年)。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、小牧長久手の戦の際に、何かヘマをしたとか、右往左往したなどの記述はありません。

楊洲周延作「小牧山戦争之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
楊洲周延作「小牧山戦争之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、家康が信長との旧好を重んじ出馬したことを、信雄は涙を流して喜んだと記しています。同書も信雄の戦にまつわるミスなどは記してはいませんが、信雄が家康よりも先に秀吉に降伏してしまったことを、少し批判しているかのような文言は見えます。

秀吉の勢いを認めて屈した信雄は「先見の明」があったとも

浜松を訪れた佐々成政に対し、家康は「私はもとより、秀吉に遺恨はない。ただ、信雄の衰弱を見るに忍びず、また故織田殿(信長)との旧好を忘れかねて、信雄は助けたのだ。そうであるのに、この頃、信雄は秀吉と和議に及んだと聞いている。私のこれまでの信義も詮なきことなってしまった」と話しているのです。

秀吉は信雄方に圧迫を加えたため、ついに信雄は、天正12年(1584)11月、秀吉の陣所に出向き、和睦したのでした。しかし、この和睦をそれほど責めることができるでしょうか。ガムシャラに抵抗し、討ち死にすることだけが、能ではないでしょう。

秀吉に降伏した信雄は、その後、家康と秀吉との仲を仲介しています。例えば、天正14年(1586)1月27日にも、信雄は岡崎城を訪れ、秀吉と家康との仲を取り持っているのです。最終的には、家康は秀吉と和睦し、上洛することになります。そうしたことを考えた時、信雄が秀吉に早期に降伏したということは(家康に無断で和睦したとの批判はあるとしても)「先見の明」があったとは言えないでしょうか。

神奈川県の小田原城。信雄も秀吉の小田原征伐に加わった
写真=iStock.com/Yata
神奈川県の小田原城。信雄も秀吉の小田原征伐に加わった

秀吉のイエスマンとはならず命令に背く度胸もあった

さて、秀吉に屈した信雄は、越中攻め、小田原攻めなどに従軍します。小田原攻め後、信雄は秀吉から、家康旧領への転封を命じられます。ところが、信雄は父祖の地である尾張から離れることを嫌がり、これを拒否。秀吉の怒りを買い、下野国(今の栃木県)烏山に配流されてしまうのです。信雄の短慮と言えば、これは短慮と言えるかもしれません。だが、あの強大な力を持つ秀吉の命令に背く度胸があり、意地があったと見ることはできないでしょうか。単なる気の弱いお坊ちゃんでは、そのようなことは、どだい、無理でしょう。

大河ドラマ「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」では、長久手の戦勝に酔い、信雄が徳川家臣団と共に、調子良く歌い踊るシーンが描かれていました。実は、信雄、能の名手でもあったのです。

秀吉もほめたほど能を舞うのがうまかった信雄

秀吉を怒らせた後、信雄は家康の取りなしもあり、秀吉のとぎしゅう(側近)となります。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、聚楽第(秀吉が京都に造営した城郭風邸宅)にて、能の興行があったことが記されていますが、そこで信雄も能を舞っているのです。その評価は「妙を得て、見るもの感に堪たり」というもの。つまり、能が上手であり、見る者を感動させたというのです。天下人・信長の子息らしく、信雄に文化的素養があったことが分かります。

ちなみに、家康はこの時「舟弁慶の義経」を演じたのだが、家康が太っていたことや、舞曲の節々に心を傾けていないこともあり「とても源義経には見えない」と人々は笑い合ったようです。秀吉は2人の舞いを見て「信雄のように家や国を失い、能ばかりうまくても、何の益があろうか」と言ったといいますが、能は信雄の方がうまかったことが、秀吉の発言からも理解できます。

月岡芳年作「紫野大徳寺焼香之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
月岡芳年作「紫野大徳寺焼香之図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

大坂夏の陣後は、家康から大和国宇陀郡などを与えられ、寛永7年(1630)、死去することになるのです。信雄の生涯を振り返ると、確かに「若気の至り」と思われるような失敗もありました。しかし、リベンジには成功していますし、秀吉に歯向かうだけの度胸もあり、何より、戦国乱世をくぐり抜け、天寿を全うしているのです(失敗しても、復活もしています)。そうしたことを考えた時、信雄を単なる愚将、駄目坊ちゃんと見るのは、酷なように思いますし、信雄の「実像」ではないと私は考えています。