政府が、出産費用の保険適用について検討を開始した。医師で医療政策学者の津川友介さんは「出産費用が保険適用になると、妊婦の経済的負担が増える可能性があるばかりか、既に減少しつつある分娩可能な産科医療機関がさらに減ってしまい、産科医療の崩壊を招きかねない。少子化対策に逆行し、むしろ少子化を悪化させるリスクの高い政策だ」という――。
妊娠中の女性と病院の医師
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現在は出産費用が保険ではカバーされない

現在、日本で出産費用の保険適用に向けた議論が起きている。

「異次元の少子化対策」の一環として、2026年度から出産費用を保険適用すると岸田首相が明言した。しかしながら、出産費用の保険適用は、少子化対策に逆行し、むしろ少子化を悪化させるリスクの高い政策である。それをここで説明しようと思う。

日本の医療保険は、歴史的な背景から「治療」のみをカバーするという制度設計になっている。なので、出産費用だけでなく、ワクチンやがん検診などの予防も保険ではカバーされていない。これは世界中そうなのではなく、出産費用や予防医療が医療保険によってカバーされている先進国も多い。

しかし、日本で妊娠出産が公費の補助を受けられないというわけではない。保険以外の財源を使ってカバーされているだけである。例えば、出産費用は「出産育児一時金」という制度で、かかったお金が後から返ってくる。

出産育児一時金は、2023年4月に42万円から50万円に増額された。物価上昇や医療の高度化に合わせて、出産費用も年平均1%くらいで増加している。それに合わせて、出産育児一時金も定期的に引き上げられているのだ。

妊娠出産は保険でカバーされないため、各医療機関はいわゆる市場原理にのっとって競争している。つまり、出産を控えている妊婦さんおよびその家族は、地域の中で、受けられる医療の質、部屋のきれいさやアメニティーなどのよさと、価格をてんびんにかけて、自分の子どもを産む医療機関を選んでいる。逆に各医療機関は、この競争の下で切磋琢磨せっさたくまし、いかに妊婦さんとその家族に選んでもらえるようになるか、試行錯誤している。

東京都と鳥取県では20万円の差

出産費用を保険適用することのメリットがないわけではない。出産育児一時金が増額になることで、それに便乗して出産費用を引き上げる産科医療機関もあるかもしれない。逆に、出産費用がじわじわと上がっていくと、出産育児一時金を引き上げるようにというプレッシャーがかかる。つまり、出産育児一時金を用いたカバーの仕方は、予算総額のコントロールが難しいという欠点があり、保険適用することでこの問題が部分的には解消される可能性がある。

また、出産費用の地域格差を縮めることに寄与する可能性もある。都道府県別でみると、56万5000円の東京都と、35万7000円の鳥取県で約20万円の開きがある。保険適用することで、この格差が徐々に縮まっていく可能性はある。

上述のように、出産費用の保険適用にメリットがないわけではない。出産費用の公費負担総額を抑制することが目的であれば、妥当な政策だろう。しかし、少子化対策としては悪手としか言いようがない。少子化をむしろ推進してしまうリスクがあるからである。

妊婦の経済的負担は増える可能性

現行の制度であれば、費用の安い医療機関で出産することで、出産育児一時金と実際にかかった費用の差額分の現金を、手元に残しておくことが可能である。

子どもが生まれると、ミルクやおむつだけでなく、子ども服、ベビーカー、子ども用ベッドなど何かとお金がかかる。これは経済的にあまり余裕のない家庭には、とても助かることだと思われる。

出産育児一時金を、実際にかかる出産費用よりも高めに設定しておくことは、むしろ少子化対策として理にかなっているのである。出産に伴って受け取ることができるお金を「出産一時金」と呼ばずに、「出産育児一時金」と呼んでいることからも、出産だけでなく育児にも充てることは合理的だろう。

さらに日本の保険は(高齢者と子どもを除くと)3割の自己負担が基本である。つまり、出産費用が保険適用になると、その3割を自腹で払わなくてはならなくなる可能性がある。いま政府は、この自己負担分が発生しないような方法を検討しているようだが、まだ最終的にどうなるかは分からない。もし3割自己負担ということになれば、出産に伴う妊婦さんおよびそのご家族の経済的負担は大きくなり、その結果として子どもを持つことに消極的になる人が増えても不思議ではない。

上記の2つのポイントをまとめると、出産費用の保険適用に伴って、出産にかかる経済的負担が大きくなると考えられ、その点で、少子化対策に逆行している政策といえるのである。

出産できる医療機関が減ってしまう

それ以上に問題なのは、出産費用の保険適用によって、出産できる産科医療機関の数が減ってしまうリスクがあることである。

出産費用の保険適用は、妊婦とその家族だけでなく、出産をする医療機関やそこで働く産科医、助産師、看護師など、多くの医療提供者にも大きな影響を与える政策である。保険適用された場合は、価格は国(正確には中医協と呼ばれる組織)が設定することになるのだが、その価格が低すぎれば産科医療機関は経営が成り立たなくなり撤退することになる。

そもそも周産期医療機関は年々減少してきており、地方では近くで安心して子どもを産める産科医療機関が減ってきている状況である。産婦人科医の時間外労働は年間約1900時間とも言われており、他の専門科と比べても過酷な勤務状態である。高齢出産の増加に伴いハイリスクな妊産婦が増えており、24時間体制が求められ、訴訟リスクもあるため、産科医になりたがる人が減ってきている。また産婦人科医の大都市圏への集中も起きており、地方では特に産婦人科医の数は足りておらず、人材不足から閉院することを決める産科医療機関も少なくない。

病院で生まれたばかりの新生児
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半分以上が「保険適用されたら分娩をやめる」

今年4~5月に行われた産科医療機関の経営者に対するアンケート調査の結果(90の医療機関が回答)を見ると、出産費用が保険適用されても、これまで通り分娩を継続すると答えた医療機関は46%にとどまり、半分以上の医療機関は「分娩を取りやめることを考えている」もしくは「保険点数がいくらかによって決める」と回答している。

【図表】出産費用(正常分娩)が保険適用された場合、 その後も分娩を継続されますか?
スペシャリスト・ドクターズのアンケート調査より(全国の産科医療機関の経営者を対象としたWeb調査、有効回答数90施設、調査期間:2023年4月5日から5月28日)

少子化を食い止めるには、出産に関わる経済的な不安を取り除くだけでは不十分で、近くに分娩をやってくれる信頼できる産科医療機関があることが必要不可欠である。そうでなくても、産科は24時間体制で妊婦さんのケアをしなくてはいけない重労働の環境である。出産費用の保険適用で、産科医療機関にこれ以上負担を強いることは、日本の産科医療の崩壊を招きかねない。高リスクな政策だと言わざるを得ない。

もちろん出産費用に保険適用されても、医療機関に支払われる金額(保険点数)が今以上に高く設定されれば産科医療機関への悪影響はないと考えられる。しかし診療報酬の改定率は歴史的に見ても-3.16%~+0.2%程度であり、出産費用の自然増である年1%よりもずっと低い。保険収載された後に、出産費用のみが優遇されて今まで通りの伸びが維持されるとは考えにくいだろう。

保険適用は「価格の透明性を高める」のか

出産費用の保険適用を行う理由として、出産費用の「透明性を高めるためだ」という意見がある。それでは保険適用することで、本当に価格設定の透明性が高まるのだろうか?

日本で医療保険の適用を受けている全ての医療サービスの単価は、中医協(中央社会保険医療協議会)というところで決められ、1~2年に1回のペースで見直しが行われている。レストランに行くとメニュー表があり、それらの隣に価格が載っているように、日本の全ての医療サービスの単価は、中央集権的に決められているのである。

確かに価格はこの会議の場で議論して決められている。しかし、それが必ずしも価格設定の透明性を高めることにはならないことには注意が必要である。

中医協は、健康保険などの保険者を代表する委員7名、医師・歯科医師・薬剤師を代表する委員7名、公益を代表する委員6名で構成されている。本来、医療サービスの適正な価格を決めるのであれば、医療経済的な評価をして、最も適切な価格を設定するべきだろう。だが実際には、しばしば政治的なパワーゲームの中で価格が決まっている。

日本の医療報酬制度のことを、アメリカの医療経済学者に説明すると、「最適な価格が分からない中で、どうやって価格を設定しているのか?」とよく聞かれる。

そうなのである。医療サービスは最適な価格を評価することが極めて難しいのである。だからこそアメリカは医療サービスを市場原理で提供することで、需要と供給のバランスの中で、最適な価格を設定させているのだ。

もちろん、日本がアメリカのようにするべきだとは思わない。日本の医療制度の方が、アメリカよりもずっと優れていると考えられるからである。しかし、「医療の最適な価格は容易に分かる」というナイーブな考えは捨てた方がいいだろう。何が最適価格か分からないなかで、暗中模索しているのが、今の日本の医療の実態なのである。

やるべきは出産育児一時金の引き上げ

今回の政策が、出産育児一時金に関わる国の予算を抑制することが目的であるのならば、出産費用の保険適用は理にかなっているだろう。しかし、もし目的が少子化対策なのであれば、この政策は逆行しており、少子化を悪化させる可能性が高い。あらゆる政策はまずゴールを明確に設定し、それを達成できる可能性を最大化されるように制度設計するべきである。

もし本当に「異次元の少子化対策」を実現したいのであれば、やるべきは出産費用の保険適用化ではなく、出産育児一時金の引き上げであると私は考える。