2019年5月に成立した「パワハラ防止法」では、LGBTなどの性的指向や性自認に関するハラスメント「SOGIハラ」や、本人の性のあり方を第三者に勝手に暴露する「アウティング」もパワハラとされるようになりました。「多様性、大歓迎」「自分は差別なんてしない」という人でも、実は相手を傷つけたり、パワハラに当たる行為をしてしまったりする可能性があります。LGBT関連の法律や労働環境に詳しい神谷悠一さんと松岡宗嗣さんが解説します。

※本稿は神谷悠一、松岡宗嗣『LGBTとハラスメント』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

ささやき
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「自分は気にしないから」と勝手に暴露してしまう人たち

本人の性のあり方を、本人の同意なく第三者に勝手に暴露することを「アウティング」といいます。これはセクシュアルマイノリティの当事者にとって、突然自分の居場所が失われてしまったり、プライバシーを侵害されるような非常に危険な行為です。

2015年に一橋大学のロースクールに通うゲイの大学院生が、ゲイであることをLINEグループで暴露されてしまい、大学の校舎ベランダから転落死してしまったという事件がありました。

さらに、2019年にもアウティングに関する裁判が提訴されました。原告の看護助手が勤務先の病院で、「男性であったこと」を看護部長によって同僚に暴露されてしまい、同僚から「気持ち悪い」と中傷されたり、身体を見せるように言われるなどのSOGIハラを受け、結果的に病院のベランダから飛び降り自殺を図ったという事件です。

「あの人ゲイらしいよ」はなぜNGなのか

このように、アウティングはその人の命まで脅かすような事態にまで発展することがあります。

残念ながらアウティングは、当事者にとって珍しいことではありません。本書を読んでいただいている方の中にも、「◯◯さんってゲイらしいよ」という噂話を聞いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

悪意によって暴露されてしまい、それがいじめやハラスメントの問題につながることは言語道断ですが、実は必ずしも「悪意」だけでない「善意」によるアウティングにも注意が必要です。

例えば、同僚からカミングアウトされた人が「良かれと思って」職場の他の同僚やその人の上司にも「あの人、実はレズビアンなんだって」と伝えたとします。その中に実はセクシュアルマイノリティに対して差別的な感情を持つ人がいた場合、その瞬間から当事者にとって自分のいる職場が「安全」ではない場所に変わってしまう可能性があるのです。

たとえカミングアウトを受けた人に「理解」があったとしても、アウティングした先の人に100%「理解」があるかどうかは誰にもわかりません。

当事者にとってカミングアウトは非常に勇気がいるもので、それと同時に、相手を信頼していることの証でもあります。しかし、その情報がいつの間にか勝手に第三者に知られていたら、「あなただからこそ伝えたのに」と思っていた当事者は非常にショックを受けるでしょう。

苦しむ女性
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アウティングが、職場環境を変えてしまう

職場の場合は、人事情報の閲覧や共有の際にアウティングが起きないようにも注意したいところです。職場で男性として認識されながら働く当事者で、しかし法律上の性別は女性であるため、人事部は知っているけれども、他の同僚は知らないという場合、その人事情報が勝手に上司や同僚、取引先に知られていたら、当事者は疑心暗鬼になり、安心できる職場とは感じられなくなってしまいます。

自分の性のあり方によって人事評価に影響が出てしまうのではないか、最悪の場合、左遷や解雇をされてしまうのではないか、会社の廊下で役職が上の人とすれ違うたびに「誰にまで知られているのか」とビクビクする等、常にストレスのかかる生活を送らなければならなくなります。

もちろんアウティングをめぐる問題の根本的な解決とは、性的指向や性自認の情報が暴露されたからといって、“たいしたもの”ではない―例えば、自己紹介で自分の星座や血液型、右利きか左利きかを伝えても、いじめやハラスメントにはつながらないように―そんな世の中になることであり、そうなれば、そもそもアウティングされたところで問題は起きません。それまでは、性的指向や性自認などの情報は慎重に扱う、という対応が大切です。

アウティング防止の方法はたった一つ

アウティングはしてはいけないことですが、防止する方法はいたってシンプルです。それは「本人に確認する」ということです。誰にまで伝えているのか、誰にまで伝えて良いのかを聞くこと、たったそれだけです。

もし万が一、アウティングが起きてしまったらどうすれば良いでしょうか。まずはアウティングしてしまったことを本人に伝えて謝罪し、伝えてしまった相手にも事情を説明しつつ、それ以上勝手に広がらないようにしましょう。再発防止策についても事前に検討しておくことは重要でしょう。

神谷悠一、松岡宗嗣『LGBTとハラスメント』(集英社新書)
神谷悠一、松岡宗嗣『LGBTとハラスメント』(集英社新書)

国内でも東京都国立市や豊島区、港区で条例に「アウティング禁止」が盛り込まれています(2020年6月現在、三重県でも検討中)。海外でも、例えば、EU圏内の個人データやプライバシーの保護を規定する「GDPR(一般データ保護規則)」にも「性的指向」は要配慮個人情報のカテゴリーに入っており、情報を取得する際には、本人の同意が原則となっています(この原則は、一部日本国内でも適用される場合があります)。カナダのオンタリオ州でも、「性的指向」「性自認」に関する情報は機密性の高い項目と規定されています。

悪意はもちろん、たとえ善意であっても、アウティングは危険な行為だという認識の上で、本人確認を徹底することが大切です。

「私は気にしない」が「差別しない」だと思ってしまう人たち

LGBT等の施策について話をしていると、わざわざ自分から「いやいや、私は特に差別をしないし、気にしてもいない。だから何もしないで自然体でいいじゃないですか」と発言される方と出会うことがあります。一見、「前向きに考えてくれるいい人だな」と思ってしまいがちですが、私(神谷)には「かなり対応が難しい人」というように見えます。

その理由は、「セクシュアルマイノリティであることを気にしていない」から「何もしなくていい」というところです。

ここまでいくつか紹介してきたように、現在の日本社会の職場には、大なり小なり、セクシュアルマイノリティに関するさまざまな困難が転がっています。採用拒否から始まって、いじめやハラスメント、異動や退職勧奨、男女別取り扱いによる困難などの課題を挙げることができます。

また、日常会話一つにも、あれやこれや気を遣わざるを得ない状況にあります。相手の顔色を窺いながら、自分がセクシュアルマイノリティだと疑われないように、プライベートな話題に深く入り込んでくることのないように、注意深くその場の会話をコントロールし、なんとか切り抜け、やり過ごす、そんな人も少なくない状況です。

このような状況下にもかかわらず、「何も気にしないから、何もしない」ということをあえて言われてしまうと、自分は状況を変えるつもりはない、困難は困難のまま抱えていてくれ、というメッセージにも受け取れてしまうのです。

「この大変さを放置したままで良い」ということなのか

違う角度の話として、「人はそれぞれ多様だから」「人を好きになるって素晴らしいこと」と言われることもありますが、それ“だけ”では済まされない部分もあります。みんな違ってみんないいのはその通りだけれども、その違いによる大変さが一様であるわけでもありません。別に大変さの競争をしたいわけではないのですが、「多様である」の一言では済まされない、大変さが日常的にあるわけです。

この点については、「his」(2020年公開)という同性愛者を描いた映画に出演した、俳優の藤原季節さんの指摘が挙げられます。藤原さんは映画について「本作は同性愛であっても、登場人物は普遍的な感情を抱いていると思っていたんです。でも、実際に同性愛者の方々と知り合ったり話したり調べたりしていくうちに違うと感じるようになりました」「普遍的な感情というのは、僕らの視点からであって、彼らのなかにはある意味存在していないと思うんです。自分たちが同性愛者だという前提を、なくすことはできない。あくまでも、同性愛者だからこそ抱く好きという気持ちと、そこで直面する壁や苦しみを描いた映画なんだと、今は思っています」と述べています。

このような指摘から考えても、「何も気にしない」「差別していないからそのままでいい」、もっといえば「人と違ってもいいじゃない」ということ「だけ」をあえて言われてしまうと、「この大変さを放置したままで良い」とも受け止められ得るのです。

もちろん、好意的に見れば、「差別はしない」と言うのですから、その人はセクシュアルマイノリティに不利益なことはしない、のでしょう(そう信じたいものです)。しかし、自分が差別的な、もしくは当事者に不利益なことをしなかったからといって、セクシュアルマイノリティの苦境が改善するわけではありません。もし、善意でそのように言っているのであれば、同じ職場で働く同僚の苦境に対して、個人として、管理職として、組織として、それぞれにできることがあります。

なお、このパターンの冒頭のような発言をされていた方が、別の機会に「同性愛者を気持ち悪いと言ってはいけません」との文書の記載に、怒りを表明されている場面がありました。もしかしたら「私は気にしない」との発言の中には、自分の行動や振る舞いを変える気はない、というメッセージを忍ばせている人がいるのかもしれませんね。