小説『華麗なる一族』の舞台になった志摩観光ホテルで女性初の総料理長に抜てきされた樋口さん。サミットを経験して、新メニュー開発の意欲がさらに高まったという。
樋口宏江●1971年、三重県生まれ。91年に入社し、2014年、同ホテルで初めての女性総料理長に就任。16年、G7伊勢志摩サミットのディナーを担当。17年、「料理マスターズ(※)」のブロンズ賞を受賞。

※2010年度に農林水産省が制定した料理人顕彰制度。樋口さんの受賞は三重県初、女性初だった。

2016年「G7伊勢志摩サミット」のディナーを担当

英虞湾(あごわん)の水面が太陽の光を受け、眩(まぶ)しいほどに輝いている。真珠の養殖筏(いかだ)が並び、いくつかの島を望む湾の風光明媚(めいび)な風景――。

賢島(かしこじま)で随一の眺望を誇る志摩観光ホテル。ここで総料理長を務める樋口宏江さんは、13時頃、ディナーの下ごしらえを終えて休憩に入ると、厨房(ちゅうぼう)の裏手のエレベーターでホテルの庭へと降りる。向かうのは数年前に彼女の要望でつくられた温室。食後のお茶に使うハーブを摘むためである。レモンバーベナやパイナップルセージ、マジョラムなどをボウルに入れると、温室脇に植えてあるレモンの実と何枚かの葉を収穫した。

「レモンの葉は飾り用です。お皿の上に季節感を出したいので」

季節感は、最も大切にしている自身の持ち味だ。4年前に彼女を総料理長に指名した先代の総料理長・宮崎英男さんは言う。

「彼女は野菜を使った四季の表現がうまい。入社当時から夜遅くまで1人残って、料理への熱意もありました。彼女ならホテルの精神を受け継げると思いました」

料理学校を卒業した彼女は1991年、志摩観光ホテルに入社した。三重県出身で地元ということもあり、このホテルで働きたいという思いがあった。当時の総料理長は「アワビステーキ」や「伊勢海老(えび)クリームスープ」など、志摩観光ホテルの看板メニュー「海の幸フランス料理」を発案し、現在の料理とサービスの基本をつくり上げた人物だ。新人の頃につくったまかないのサラダをほめてもらったときは、飛び上がるほどうれしかったものだ。

23歳の若さでレストラン「アルカサル」の料理長に抜てき

「先々代がいた厨房は、いい意味で、ピリピリしていました」と彼女は懐かしそうに話す。新人の頃は料理の技術よりも、料理人としての作法を叩きこまれた。厨房はきれいに保つこと。調理道具は常に真っすぐにそろえて置くこと。

(上)スタッフと当日のメニューや予約客の情報(食材の好みや食事の目的など)を共有する。(下)ホテルの庭の温室で栽培しているハーブを摘んで、薬味や夕食後のハーブティーに活用している。

「いま自分が総料理長になって思うのは、緊張感がいかに大切かということです。仲良しチームもいいけれど、締めるところは締めなければ。おいしい料理はきれいな仕事場から生まれるんです」

以前の彼女は前述の通り、1人で厨房に残り、夜遅くまで料理を研究し、調理の練習をしていることが多かった。同ホテルの和食「浜木綿(はまゆう)」の料理長も、樋口さんの印象をこう語る。

「私が他のホテルにいた頃から、彼女は繊細さが感じられる料理で知られていました。志摩に来て印象的だったのは、いつでも若いシェフと笑顔で会話をして、彼らと厨房を動き回っていたことです。日本料理からも技術を吸収しようという意欲が強く、食材の扱い方などを聞かれることも多いです」

彼女が23歳という若さで志摩スペイン村のレストラン「アルカサル」の料理長に抜てきされたのも、そうした勤勉さや熱意が評価されたからだった。

「男職場なので、当時は『なんで女に指示されなきゃいけないんだ』と思っていた同僚もいたかもしれません。とくに先輩は、昨日まで『おい、樋口』と呼んでいたのを『樋口さん』と呼ぶことになりますし(笑)。最初はやりにくいこともありましたが、きちんとお願いをしながら、言いたいことは言うようにしてきました」

もう1つの大きな転機は、結婚し、長男を出産したことだった。

「同じアパートの知人が声をかけてくれて、子どもを預かってくれたのは本当に助かりました。それでも、夜にどうしても職場へ行かなければならないときもあって。さびしがっているんじゃないかと、見送る息子を振り返れない時期もありました」

そんな樋口さんの思いを汲(く)んで、夫は家事・育児を全面的に支えてくれたという。

「周囲の人の助けがなければ、私はこの仕事を続けられなかったかもしれません。とくに夫には、感謝の言葉しかありません」

そう語るとき、彼女は思わず涙ぐむのだった。

地場の食材を使って、新しい世界をつくる

総料理長としてホテル全体の料理を統括するようになり、樋口さんには明確な目標ができた。歴代の総料理長から受け継いだ伝統を守ると同時に、自分らしい料理を提案していくことだ。

Essential Item●アラン・デュカス監修のル・クルーゼの鍋とトルション(鍋つかみ)。手帳もクルマも赤を愛用している。

志摩観光ホテルには「昔食べたあの料理を」と、伝統の味を期待して訪れる常連客も多い。新しいメニューを出して「いらない」と言われたことも、1度や2度ではなかった。

それでも新たな挑戦を続けたい、と樋口さんは言う。2016年の伊勢志摩サミットで料理を担当したとき、地場に未知の食材があることを知り、「これで新しい一皿をつくりたい」という思いがあふれた。

「アワビや伊勢海老の伝統的なレシピは守りつつ、地場の食材に光を当て、いかに自分らしい料理を表現していくかを模索したいんです」

そのためにはまだまだ時間が必要だという思いがある一方、「だからこそ」と彼女は語った。

「10年続けてようやく、私の新しいメニューを楽しみにしてくださるお客さまが増えてきました。それを励みにしながら、もっともっと三重の豊かな食材の魅力を表現していきたい。ホテルの味を受け継ぐ人材を育てつつ、常に新しい挑戦をしていく。それが私の役割だと思っています」

▼樋口さんの1日のスケジュール
(7:00)起床 家事(掃除・夕食の仕込みなど)
(10:00)ミーティング
(11:00)食材のチェック、キッチンミーティング
(12:00)ランチの調理、会議・打ち合わせ、仕込み作業など
(14:00)発注、メニュー作成、仕込み作業など
(15:30~16:00)昼食
(16:30)1度自宅に戻り、買い物や夕食の準備
(17:30~)オーダーに対応
(22:00)新メニューの試作、メールチェックほか
(23:30)帰宅、食事・入浴・朝食の準備、くつろぎ
(2:00)就寝