今年EUを揺るがした難民問題は、遠い海の向こう側の話、と実感のない読者は少なくないかもしれない。難民を巡る日本の現状はどうなっているのか。国連難民高等弁務官事務所で活躍する守屋さんを通して、探ってみる。

日本は「難民」をどう受け入れてきたのか

日本は1970年代後半から80年代にかけて発生したインドシナ難民、いわゆるベトナム、ラオス、カンボジアの方々を1万1000人ほど受け入れてきた実績があります。その他、自力で庇護を求めて来る難民もいますし、第三国定住という、日本が2010年から始めた難民を受け入れる枠組みで日本にいらした方もいます。これらを全て足すと、現在1万4000人ほどが日本で暮らしています。

当時は「移民」という言葉がよく使われていたのですが、皆さんにしっかり覚えてほしいことがあります。「移民」は自分の自由意思で、よりよい生活を求めて移動する人たちのことを指します。自分自身のタイミングで移動できるだけでなく、好きな時に母国に戻ることもできます。

一方「難民」は、ある日突然、迫害や紛争によって逃げざるを得なくなった人たちです。そして彼らは、母国へ簡単には戻れません。難民の誰もが「母国に帰りたくない人なんていません。でも、紛争があり、迫害を受ける怖れがあるという国に帰りたい人もまた、いません」と言うように、不用意に戻れば難民生活以上の苦痛が待っています。難民も移民も同じ船に乗って移動することがありますが、立場は全く違うことを理解してください。

難民を受け入れるということ

さて、難民を“受け入れる”ということは、逃れてきた人たちが一時的に滞在できればいいのではなく、その国の社会で独り立ちし、自活できるようサポートすることまでを含みます。

受け入れ国は、具体的に難民に対して、語学教育、文化的な慣習に馴れるためのトレーニング、仕事の斡旋、さらに子どもたちへ教育を受ける機会を提供します。やがて彼らは仕事をし、滞在国に税金を納めるような社会の一員として巣立っていく。そこまでをして受け入れなのです。

国連難民高等弁務官事務所 駐日事務所広報官 守屋由紀さん

シリア難民を受け入れているドイツなど、各国にこのようなプログラムがあります。日本もプログラムの充実を図っていて、政府が民間に委託して事業を展開しています。難民に対する日本語の教育、日本で暮らすための文化的・社会的ノウハウの指導、そういったトレーニング期間に暮らすシェルターを提供し、仕事も斡旋しています。

その後、日本国籍を取得する人もいれば、平和になった祖国に戻る人も。中には日本で学んだことを持ち帰り、自国でビジネスの“懸け橋”になって活躍する方もいらっしゃいます。失わずにすんだ命、その強い意志で国と国とをつなぐ懸け橋に――そういう覚悟があるのです。

仕事で池上彰さんとご一緒させていただく機会があるのですが、池上さんがカンボジアに取材に出かけた時、日本語を流暢に話すコーディネーターさんがいて、とても驚いたと話をしてくれたことがあります。聞けば、ご自身が幼少の時、カンボジアでの大量虐殺を逃れ、難民として日本で大学までの教育を受けて育っていたというのです。「私はカンボジアで生まれたが、日本に育てられた。これからは日本とカンボジアの『懸け橋』になりたい」と語っていたそうです。彼らは家族をあげて日本のファンになり、難民だったという辛い時間をビジネスチャンスにつなげたのです。

難民認定の難しさ

日本での難民認定は、法務省の入国管理局が行っています。日本への出入国管理をする部門です。認定作業の中で困難なのは、難民の方が偽装パスポートを所有していたり、命からがらの脱出のために申請書類がまともに揃わなかったり、あるいは、人間はつらい体験をできれば忘れたい、忘れようとするため、迫害などによるトラウマからインタビュー証言が曖昧だったりすることです。怪しい人物だと疑われるかもしれません。

実は難民が偽装パスポートを持っていることは度々あることです。迫害を与えている国が、脱出しようとする国民にパスポートを発給するでしょうか。そのためブローカーが偽造パスポートを手配する、というビジネスが成り立っているからなのです。皮肉なことに、偽装パスポートによって難民認定から弾かれてしまう危険性があるわけですが。

そんな中、昨年は5000人の難民が日本に避難してきました。日本が受け入れを始めてから過去最高の人数です。そうなると、対応する役所も大変なことになります。担当窓口を増員する必要がありますが、人の命を左右する非常に難しい仕事ですから、迅速には対応できません。この難民の急増と担当者不足の連鎖は、難民認定が下りるまでに時間を要してしまう原因です。残念ながら、最近では3~4年かかってしまうのが実情です。

教育こそが抜本的解決への道

難民認定は、国際的な取り決めである1951年制定の「難民条約」を各国が解釈し、それぞれで認定プロセスを持っています。日本ほど時間はかからないまでも、どの国でもある程度の長い時間を要します。本来なら、自分の国から逃れた時点で難民とされるべきだと思うのですが、これが私たちのジレンマですね。

この認定を待つ3~4年の期間に、実は見過ごせない問題があります。その間、子どもたちは教育を受けられないのです。

教育はとても大切です。教育を受ける機会が奪われると、雇用の際に不利が生じたり、貧困や憎しみの連鎖につながったり、さらにそうした人たちの言葉は政治的に効力を発揮しにくいので、社会全体が権力者に従わざるをえないような状況になりかねません。

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キャンプ内に設けられた学校。教室も教師も限られるため、2部制、3部制で運営されている。初等教育までの提供だが、教育機会の空白をつくらないことが、次世代の社会を築くことにつながる。

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんが訴えたように、教育こそが、ペンとノートが、さまざまな暴力に打ち勝つことができるのです。

だからあえて、傲慢な権力者はそういう機会を国民に与えません。また、シリアなど、紛争下の教育も難しくて、校舎があっても先生がいなかったり、教科書がなかったりします。そうなると子どもたちは、ますます教育の機会から遠ざかってしまうのです。

そうした教育の空白を埋めるべく、UNHCRは国連のパートナーたちやNGOの方々と難民キャンプで教育の場を設けようと活動しています。施設に限りがあるので、2部制、3部制で初等教育の授業を行っています。

その現場の話を聞くと、落ち着きがなかったり、物音に過敏に反応したり、つまらないことでいさかいを起こしてしまう子どもたちが多いそうです。紛争の影響による情緒不安定。子どもとして虐殺の現場など、見てはいけないものを見過ぎてしまい、彼らの心は想像を絶するほど深く傷ついていると。また、親が恨み事ばかり言う中で育てば、同じように憎しみの対象をつくってしまうことになります。そういう子どもたちには、教育以前の心のケアから始める必要を感じています。

子どもたちばかりではありません。若い青年たちの将来も心配です。いずれ平和になったら、国再建の中心的な役割を担わなければいけないのですが、教育は寸断されてしまっています。ものすごくみじめな思いで低賃金の仕事に就いたり、中には、生きていくために性的搾取を受けている人も。身も心もボロボロな状況では、一国の再建に注ぐエネルギーなど持てないかもしれません。

先に日本の難民認定には3~4年かかると言いましたが、こと教育においては、日本はしっかりと教育体制をつくっています。難民認定を待っている子どもたちも、住んでいる自治体の学校に行くことができるのです。これは本当にいい制度です。

もしかしたら今、日本がシリア危機に関してできる支援に、「教育」があるかもしれません。例えば、難民の青年たちを留学生として受け入れる。日本の大学で学んでもらい、その人たちが卒業後、日本で就職する、あるいは平和になった母国に帰り、日本との懸け橋になるような仕事に就く、という具合です。現地のコーディネーター、商社の通訳などなど。日本が世界から尊敬され続けるために、日本らしい社会貢献の形があってもいいのではないでしょうか。

※第4回「日本的『調和型』の組織が、人道支援現場で重宝されるワケ【4】」は12/28の配信です。

守屋由紀
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所 広報官。1962年東京都生まれ。父親の仕事の関係で、日本と海外(香港、メキシコ、アメリカ)を行き来しながら育つ。獨協大学法学部卒業後、住友商事に入社。5年後、結婚を機に退職してアンダーソン・毛利法律事務所へ。1996年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に採用され、2007年より現職。