「郵便不正事件」で無実の罪で逮捕・拘留されたとき、友人からの差し入れで読んだ『一日一生』。苦しかった20日間この本に支えられたという村木厚子さんは、「人生を支えられた初めての体験」と語る。

生きることは作文を書くこと

それは天台宗の僧侶・酒井雄哉(ゆうさい)先生に、初めてお目にかかったときのことでした。

無実の罪で逮捕・拘留された「郵便不正事件」の体験を、自分はどう受け止めればいいのか。そのことを尋ねると、酒井先生はそれまで通り穏やかに笑いながら、こんなふうにおっしゃったんです。

村木さんは仏さんに課題を与えられて、論文を書かせられたんだよ――。

この言葉を聞いて、私は何か納得するような思いを胸に抱きました。

村木厚子さん「今日という一日のことだけを考え、自分の身の丈に合ったことだけをやればいい。」

そう、人には誰にでも、人生の中で何かしらの宿題をもらって、自分なりの答えを書かなければならないときがある。そのとき直面した宿題をどう受け止め、何を書こうとするか。生きるということは、一生懸命にその作文を書くことの繰り返しなのだ、と。

私が酒井先生の本に出会ったのは、拘置所で厳しい取り調べを受けていた最中のことでした。友人の差し入れの中に、『一日一生』という一冊があったんです。

取り調べは20日間続くことになっていました。手練手管にたけた検事さんと私では、初めから勝てる戦いではありません。でも、楽になるためにやってもいない罪を決して認めてはいけない。勝てはしなくても負けてはいけない。娘たちにそんな母親の姿を見せてはいけない。そうした思いをひたすら抱えて、私は苦しい時間を戦い抜こうとしていました。

一日一日が本当に長かった

そのような一日というのは、本当に長いんです。拘置所の部屋に張ってあるカレンダーを穴が開くんじゃないかというくらいに見つめ、やっと1日が終わった、やっと2日が終わった、と気づけば数えている。取り調べが終わっても拘留は続くので、終わりが見えない状況が苦しくてたまらなくなってくるんですね。

そんな中で『一日一生』を読んだとき、私はたくさんの言葉をもらったように感じました。ありのままの自分であり続け、一日一日を生きることの大切さ。そのことが本当にシンプルに、優しく説かれていたからです。

『一日一生』

〈一日が一生、と思って生きる〉
〈身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す〉

日記にそう書き写しました。

酒井先生は、比叡山延暦寺の千日回峰行という修行を2度にわたって満行した僧侶です。修行は険しい山道を歩き続ける過酷なものですが、千日間続くその修行もまた、一日一日の積み重ねだと言う。いまはこの一日のことだけを考え、眠るとまた新しい自分の一日が始まる。そのように、日々を積み重ねていくのだ、と。

私は当時、取り調べの20日間に耐えられるかどうか、ということばかり考えていました。

でも、そうじゃないんだ。自分の身の丈に合ったことだけを、今日だけやればいい。そう考え方を変えると気が楽になって、長い取り調べも最後まで耐えられるという気持ちになりました。一日一生。それで自分は大丈夫だと思うことができたんですね。

いまできることだけを考えて

考えてみれば、それまでの私も“いまできること”を何より大切にしてきました。

この社会の中で長く働いていると、仕事に追い詰められることもあれば、子育てで大きな問題にぶつかるときもあります。けれどそんなときに最も避けるべきは、いま悩んでも仕方のないことにとらわれて、身動きが取れなくなることです。

例えば子育てや介護をしながら仕事をしていると、全部が中途半端になってしまうんじゃないかと真面目な人ほど悩むものです。職場に迷惑をかけているんじゃないか、自分は子どもにとって良い母親だろうか……。

でも、悩まなくていい。後輩の女性にはよくそう言ってきました。同じように悩むなら、与えられた環境の中でどうしたら良い仕事ができるか、良い親になれるかを考えればいい。本当は150の力を持っているのに、いまは仕事と家庭を両立させるために100の力しか出せないかもしれない。でも、それでいい。いつも100パーセントの環境で仕事をできる人なんていないし、悩んでいるとその100の力だって50になってしまう。

私はこれまでずっとそうやって働いてきましたし、それが正しかったと思っています。

そしていま振り返るとこの本に出会うことで、そんな自分の生き方を言葉にしてもらった気がするんです。それは私にとって本というものに、人生を支えられた初めての体験でした。

●好きな書店
ネット

●好きな読書の場所
通勤電車、お風呂など

●好きな作家
今野 敏、マイクル・コナリー、宮部みゆき、塩野七生

村木厚子
1955年高知県生まれ。高知大学卒業後、78年労働省(現・厚生労働省)入省。障害者支援、女性政策などに関わり、雇用均等・児童家庭局長などを歴任。2009年郵便不正事件で逮捕・起訴されるも、10年9月の裁判で無罪確定。13年7月から15年10月まで、厚生労働事務次官を務めた。著書に『自分の「ものさし」で生きなさい』(酒井雄哉氏との共著)などがある。