髪を振り乱して両立してきた

ジャパンタイムズ執行役員 編集・デジタル事業担当 大門小百合さん。

記者になろうと思ったのは学生時代にテレビ局でアルバイトをし、色々なところからニュースが集まる現場がエキサイティングだったからです。高校ではアメリカ、大学ではニュージーランドへ留学し、英語を使った仕事に就きたいという気持ちもあったので、ジャパンタイムズは「自分の英語力を活かせるかもしれない」と思いました。でも入社すぐのころは、書く記事、書く記事、真っ赤に直されて戻ってきて落ち込みました。

記者というのはニュースに振り回され、取材先の都合に左右される仕事です。自分でスケジュールを組むことはかないません。小さな子どもを育てながらできる仕事ではないと思われていました。今もその状況はあるでしょう。同期入社の女性が数名いましたが、会社に残っているのは私だけです。子どもをもちながらデスクになったのもジャパンタイムズでは私が最初です。

仕事と子育ての両立は毎日が綱渡りです。誇張でなく「髪振り乱して」がぴったりの言葉です。昨年10月に執行役員になり、ジャパンタイムズ117年の歴史の中で初の女性編集責任者として、編集部門をリードする重責を担ったのですが、社外の女性たちからの問い合わせがどっと押し寄せたのには驚きました。メディアも含め、他社で役員一歩手前の人たちや管理職を目指している女性たちも、私と同じように悩みを抱えて迷いながら仕事をしていることを知りました。

英字新聞ならではの影響力

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大門さんのキャリア年表

自分の仕事を振り返ってみると、ジャパンタイムズ入社後は社会ネタを少しやってから政治担当、経済担当、産業担当と動き、小渕内閣のときに政治担当に戻ってきました。思い出深いのはPKO法案、自由民主党初の下野、日米航空交渉などの取材です。

1992年のPKO法案のときは、それを通すまいと社会党が投票箱まで出来る限り時間をかけて歩く牛歩戦術をとったので、1週間の徹夜国会となりました。夜中1時ごろから投票が始まり、2時ごろ社会党の番が回ってくると、「あと4~5時間は決着しないだろう」と踏んで急いで家に帰り、シャワーを浴びて朝7時ごろ国会へ戻ってくるという毎日でした。

1993年に自民党が政権から落ちるときは、他社の先輩記者たちは「そんなことがあるわけがない」と話していましたが、私は取材している中で「ひょっとしたら」という予感がしていました。固定観念にとらわれてはいけないと教えられた出来事でした。

日米航空交渉の取材は自分でも頑張ったと振り返ることができる仕事です。路線の開設で日米が真っ向からぶつかっていました。英字新聞の特徴だと思いますが、日本語の新聞と違って記事内容がアメリカ人にダイレクトに伝わります。日米両政府から呼ばれ、「相手の本音は何か」と聞かれ、双方の本音と重要な情報に触れるチャンスがありました。そんな中でアメリカの運輸長官が日本の運輸大臣にあてた書簡をスクープできたのです。

命をかけて書き続ける人たち

記者として醍醐味が味わえる場面に立ち合え、忙しい毎日でした。でも自分の力量に不安を感じていました。取材で回っていると「アメリカはどうなの?」「海外ではどうなっているの?」と逆に尋ねられることも多く、満足に答えられませんでした。知識や経験が不足している、との思いが募っていきました。そんなとき「ニーマンフェロー」で留学するチャンスを得ました。

これは7~8年のキャリアを持つ中堅ジャーナリストを対象にした学習プログラムです。習うだけでなく、自らも経験や知識を伝える双方向性が特徴です。全米から12人、米国以外の国から12人が選ばれてボストンのハーバード大学で学びます。

2000年から2001年の1年間、世界のジャーナリストたちが何を考えているか、どんな仕事をしているかをお互いにシェアする機会に恵まれました。内戦下からやってきたボスニア人のジャーナリストは「対戦しているセルビア人にもいい人間はいる」と書いて、銃を突きつけられたといいます。コロンビアのジャーナリストは麻薬の売買を牛耳るマフィアと腐敗した政権の間で命をかけて書き続けている人でした。コロンビアは殺されたジャーナリストが最も多い国です。

命の危険を冒しながら書く意義を語るジャーナリストたちを前に、「私なんてまだまだだな」と思ったものです。

ニーマンフェローから日本に戻り、デスクに就くのですが、2004年、人生のすべてを変える出来事が起きました。出産です。想像を絶する状況が待っていました。