何年も「英語の重要性」が叫ばれているが、子供の英語力は向上しないどころか、むしろ後退気味……。一体、その原因はどこにあるのか? 「日本語力の低下と深い関係がある」と教育について数多くの著作を持つ、思想家の内田樹さんが分析。英語以上に国語の重要性を力説する彼に、その真意を問う。

「英語を学べ」とメディアをはじめ社会も、文部科学省も騒ぎ立てる昨今。特に文科省は2002年から、「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想を発表しているが、子供たちの英語力が向上したかと問われれば、甚だ疑問だと答えるしかない。大学生にしても、英語力についての評価は高いのに英語力そのものは低下し続けるばかり。この矛盾した事態はなぜ起きたのか?

英語力が下がった理由は「英語を学ぶと将来的に有利」などと、英語力を実利に結びつけるようになったからである。学習の“報賞”があらかじめ開示された場合に、子供たちはいかに効率よく“報賞”を手に入れるかを考える。最小の学習時間で、最大の効果を求めるようになり、最も費用対効果のよい学習法を探すようになる。書店に「6週間でTOEICのスコアが100点上がる方法」と「3週間で100点上がる方法」が並んでいれば、ためらわずに「3週間」の本を選ぶだろう。「聞き流すだけで英語力が上がる」とか「居眠りしながら英語力が身につく」とかいう商品が市場にあふれている。これらはすべて「最小の学習努力で最大の効果」をめざしている。頭がいい子ほどその傾向は強い。その結果、子供たちに「英語ができるといいことがある」というアナウンスをすればするほど、彼らの英語学習時間が短くなるという奇妙なスパイラルが生じたのである。

かつての「英語が好き」な子供たちは、誰に言われなくても英語の小説を読み、英語の音楽を聴き、英語の映画を観て、厚みのある英語力を身につけた。そのようにして得た英語力は試験の点数にそのまま反映されるわけではない。無駄が多すぎたからである。入学試験に出るはずのない「無用の知識」を大量に含んでいたからだ。けれども、その「試験には出ない知識」が彼らの英語力の厚みを形成していた。

あらかじめ“報賞”を開示すれば、子供たちは必ずそこに至る「最短距離」を探すから厚みがない。だから、「この教科を勉強すると、いいことがある」という誘導のしかたはしてならないのである。今学校で教えている教科の中で「成績がいいと金になる」と露骨に効用が示されているのは英語だけだ。近代教育史上、今の英語ほど実利と有用性がうるさく言われている教科は存在しない。

英語力の低下より深刻なのは国語力の低下である。だが、これについては「国語力をつけるといいことがある」という類いの利益誘導はほとんど見ることができない。それは「日本人なのだから、自分は日本語がうまく使えているはず」「母語運用能力には差などない」という思い込みがあるからだ。でも、実際には英語以上に大きな差がある。

母語はあらゆる知性的・情緒的なイノベーションの培養基である。私は母語によってしか「喉元まで出かかったアイディア」を言葉にすることができない。後天的な努力によって英語で読んだり、書いたり、話したり、場合によっては考えたりすることも可能だが、英語で“創造する”ことはできない。母語を話すときだけ、私たちは「それまで存在しなかった語」や「それまで発音されたことのない音韻」を口にすることが許される。それでコミュニケーションが可能であり、ニュアンスが正しく伝わるのであれば、「文法的に間違った言い方」をすることも許される。その「間違った言い方」が広く使われるようになれば、いずれ辞書に載ることもある。そういうことは外国語では起きない。私たち非英語話者は英語に新しい語彙(ごい)を追加することもできないし、文法的に間違っているが“言いたいことはわかる”言い回しを英語話者に受け容れさせることもできない。母語は話者に思考の自由、アイディアの創造を保証する。だから、母語が国際語である人々はその時点ですでに国際競争におけるアドバンテージを握っているのだ。英語が現在国際共通語であるのは、イギリス、アメリカという英語国が20世紀世界の覇権国家だったからである。それにインターネットの共通言語が英語になってしまった。これによってかつては国際共通語として競合していたフランス語、ドイツ語はその地位を失った。

英語=母語が国際共通語である国民は政治交渉でも、経済活動でも、学術活動でも、あらゆる点で優位に立つことができる。国際的なネゴシエーションも、商取引も、学会発表も、すべて母語で行うことができる特権がどれほどのものか、私たちのようなマイナー言語の話者にはとても想像が及ばない。だから、英語話者たちはこの特権を決して手放さない。英語ができれば世界中どこでも誰とでもコミュニケーションができるという言い方は、フェアで民主的なコミュニケーションのルールであるかのように見えるけれど、実際には英語話者があらゆる領域で優位性を保持し続けるためのトリックなのである。

言語は政治的なものである。だから英語話者たちは英語圏の政治的優位を固定化するために、英語学習について強い方向性を打ち出している。それは英語教育を「読み書き」から「会話」中心にシフトさせるという流れである。これはどこでも植民地支配に際して宗主国が植民地住民に対して行ってきたことである。植民地住民に読み書きを教えた場合に、優秀な子供であれば短期間に宗主国の言語を習得し、文学や哲学や宗教書まで読んで理解できるようになってしまう。読み書き中心で語学学習した場合に、植民地住民が宗主国民を知的に圧倒するという事態が出現しうる。植民地の現地官僚が名前だけ知っていて読んだことがないような古典を諳(そら)んじてみせる現地人というのは、彼らにとって「悪夢」である。だから、「会話」を教えるのである。宗主国の言語を会話学習に限定している限り、植民地住民が知的に宗主国民を脅かすという事態は絶対に起こらない。あらゆる会話局面において、ネイティブ・スピーカーはノン・ネイティブスピーカーに対して、その発音の誤りを正し、語彙選択の不適切を指摘し、話の腰を折って「そんな言い方はしない」とコンテンツごと否定する権利を留保できる。オーラル・コミュニケーション中心で宗主国語を教える限り、圧倒的にネイティブ有利な言語の政治が実現するのだ。

日本人は古来さまざまな外国語を採り入れてきた。漢字を“やまとことば”にはめ込むハイブリッド言語を作り出し、明治維新後は猛然たる勢いで欧米のテクニカルタームを漢字二字の熟語に置き換えて、感動的な質と速度の翻訳事業を成し遂げた。このとき「読み書きはいいから、会話中心で外国語教育は行うべきだ」というような理屈がまかり通っていて、人々が外国人とネイティブの発音に近い会話をすることに知的努力を集中していたら、日本はいまだ蛮国のレベルにとどまっていたであろう。

英語教育のモデルとしてよくあげられるのがシンガポールである。住民の多くは中国の福建省や河南省にルーツを持つ中華系だが、公用語は英語であるおかげで東アジアの経済的・学術的中心となっている。しかし、そのことの代償もシンガポールの中国人たちは支払っている。今の若者たちは祖父母と共通の言語を持っていない。先祖が書いた日記も手紙も読めない。先祖伝来の食文化や生活習慣も希薄化している。

文芸評論家の江藤淳は、母語で読み、書き、語ることで伝来の文化に触れる経験を「死者たちとの共生」と呼んだ。その意味でシンガポールの若者たちは「共生すべき死者」を今は持っていない。だから、シンガポール文学というものがない。シンガポール音楽というものもない。シンガポール美術というものもない。オーケストラもあるし、立派な美術館もあるが、楽団員は海外から集めてきた人たちであり、収蔵品は金で買ってきたものである。国民をどうやって国民的に統合するのか、それがシンガポールの最大の悩みだ。

また、フィリピンは久しくアメリカの植民地であったから、人々は英語を話す。しかし国際化が進んでいると言うことができるかどうか私にはわからない。フィリピン人はタガログ語という母語を持つが、日本の明治維新のときのような翻訳文化がなかったために、タガログ語では政治や経済や学術を語ることができない。だから、政治家も官僚も学者もみな英語で話すほかない。これを幸運と言うべきなのか、悲劇的と呼ぶべきなのか。たとえば漱石も鴎外も荷風も読めない日本の若者たちを想像してみるとよい。彼らが自国文化へのつながりを実感し、自国文化への誇りを持つことはずいぶん困難になったであろう。

母語の運用能力を上げるためにどのような方法があるか。1つは音読である。無文字言語というものは存在するが、音を持たない言語は存在しない。言語の本質は音である。古典をひたすら音読すると、意味はおのずとわかってくる。同僚の日本文学者が授業で樋口一葉の『たけくらべ』を読ませたところ、学生たちが「意味がわからない」と言う。でも、音読させたら意味がわかったと顔を輝かせたそうである。音読の最良のかたちは謡曲だろう。能楽の謡(うたい)は「謡うエンサイクロペディア」である。漢籍仏典、記紀神話、万葉集、古今集、源氏平家、伊勢物語から近世に至るまでの文学・宗教・歴史の基礎教養を謡って覚えることができる。話芸を聴くこともリズミカルで響きのよい日本語を習得するうえで効果的である。落語でも歌舞伎でも、「こういうふうに語るとグルーブ感が出る」という消息は、名人の話芸を聴いて習得するのが最も効果的である。

話を英語に戻そう。私自身は、今日本の学校で行われている英語学習に疑問を抱いているが、国際共通語の必要性と有用性はもちろん認めている。そのうえで、英語ではなく、「リンガフランカ」を学習するということを提案している。これは非英語圏の人たちが英語によって意思疎通を果たすことをめざすコミュニケーションのための言語のこと。かつてヨーロッパではラテン語がそうだった。ラテン語は死語であり、それを母語とするものがいなかった。だから、ラテン語で意思疎通する人たちは誰もアドバンテージを持たなかったのだ。「リンガフランカ」はPoor Englishと言い換えてもいい。とにかく通じればいい。発音がいいとか悪いとか、そういう言い回しはしないとか、文法的にどうだとか、そういうことを言わない。

「リンガフランカ」の授業では、教師は決して生徒の発音の間違いや文法上の間違いを指摘しない。身振り手振りも、絵を描くことも、コミュニケーションに資するふるまいはすべて許される。そして、点数も成績もつけない。この授業で、オーラル・コミュニケーションの基本は身につくはずである。その後“正しい英語”で古典を読み、政治や経済や学術の専門的なテキストを読むといった、授業に移行する。これで、日本人の英語力は今よりずいぶん向上するはずであるし、物怖(お)じしない英語話者が誕生すると思う。

しかし、英語より前に、母語=日本語の学習が大切だ。

内田 樹
思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。1950年、東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。90年に神戸女学院大学助教授となり、現在同大学名誉教授。合気道六段、居合道三段の武道家であり、神戸市に能舞台と道場を融合させた凱風館を設立。専門は、フランス現代思想、ユダヤ文化、映画、武道等、幅広い。