簡単にいったら、偏らなければいいんだよ。相手さんに対して、好きなら好き、嫌いなら嫌いで偏った感情を持つから嫉妬の心が起きるんだ。こだわりすぎるから、トラブルになるんだよ。

小さい赤ん坊を見ていてね、あんまり可愛いから、キュッとほっぺたをつねったりするおばちゃんがいるじゃないの。嫉妬を燃やしちゃうのも、そういうのと紙一重なんだな。

これは女性に限ったことではないけどね、ついこの間まで好きだといってベタベタしていたのが、何かの拍子に嫌いになると、今度はフンともスンとも言わなくなる。そういうのが高じてくると、殺し合いになるわけだ。

だから、相手に「こだわる」「固執する」ということがいけないんじゃないのかな。相手さんの「いいこと」(出世とか結婚とか)はいいことに決まっているんだけれど、あんまりしつこく関わりすぎちゃうと、別に怒らなくていいのに怒りが湧いてくるんだね。

左なら左、右なら右にこだわりすぎると、頭の中が過熱して大変なことになっちゃうの。そういうふうになったときは、一呼吸置いて、ちょっと高い位置から眺めてみる。そうすると、落ち着いてくるんじゃないのかな。仏さんみたいな立場に上がってね。

高いところからだと、両方を平均して眺めることができるじゃない。そこから見て、自分はこういうふうに言っているけれど、もしこれが反対の立場だったらどうなるのかなあと考える。

そうやって、相手さんの気持ちに自分がなればいいんだよ。他人が見たらたしかに「いいこと」かもしれないけれど、本人からすれば「あんまりよくないよ、駄目だな」ということかもしれないからね。

こだわりすぎるのはよくないけれど、反対にボケーッとしているだけというのも、ノイローゼみたいになるからこれもいけない。冷静になって、ものを判断できればいいんだよ。

そのあとで、一歩足を前に出して進んでいく。前向きになる。そういうふうにしていけば、だんだんといいアイデアが出てくると思うな。

たとえば「クルマができたから事故が起きるし、いつもその心配をしなくちゃいけない」なんて、ウツウツと考えている人がいるじゃない。でも現実には、クルマがあるからこそ、子どもや奥さんを連れて気軽にドライブに行けるんだ。

そんなふうに前向きに考えれば、クルマに乗る前に「これから遊びに行きますが、無事に帰ってこられるようによろしくお願いします」と、クルマ自体を仏さまの存在として見るようになるでしょう?

自分たちを守ってくれるんだから、整備や点検だってきちんとする。それで無事に帰ってきたら「今日1日ありがとうございました」と感謝をする。クルマでも悪いほうにとったら事故の心配とか出てくるけれど、ルールを守ってちゃんと扱えば楽しいものだ。つまりは心の持ち方だよ。

だけど、自分では冷静に、前向きに考えることができたとしても、相手が嫉妬を燃やしていたら困るよなあ。そのときはもう、勝手にしてもらうしかないんだよ。

なるべく会わないようにする。接しない、会話もしないようにしていけば、だんだん離れていっちゃうからね。

昔から言うじゃない。悪いお師匠さんにつくと、それだけの人間にしか成長しない。だから付き合う人間を選ぶことだよ。

いままで友だちだったとしても、これは駄目だなあと思えば、自然に離れるようにする。そのときは、パッと急に離れるんじゃなくて、10回会うところを7回にするとかして、だんだん回数を減らしていくんだよ。話題も少なくなるから、しまいにはあまりしゃべらなくなってくる。

そういうことは大事なんだよ。

僕のところにも、ご先祖の霊が悪さをするから「どうにかしてください」って相談にくる人がいる。肩のところに乗っかっていて、体の具合が悪いと言うんだね。

そういうとき、僕はこういうたとえ話をするんだよ。

親戚に、できのよくない甥っ子がいて、たびたびお金をせびりにくる。その都度なにがしかを渡すんだけれど、何度も来るので、みんな困り果てている。そんなとき一番効くのは、おっかない伯父さんが出ていって「バカもの! おまえとはもう縁を切る」と一喝することだよね。

それと同じで、ご先祖っていうのは子孫の繁栄を守るものだから、大切にしなくちゃいけないの。ところが、あなたの言うご先祖は、子孫を守るどころか祟ろうとする。それが本当にご先祖なら、ご先祖の風上にもおけないじゃない?

こっちから縁を切ってやればいいんだよ。

そうすると、「ほんとですねえ」なんて言って、さっきまで暗い顔をしていた人が、大笑いしながら帰っていくんだよ。

信者さんのことでは、こういうこともあったな。

昭和52~53年のことだけど、僕はちょうど千日回峰行(比叡山中を延べ4万キロ歩き通す天台宗の荒行、酒井師はこれを2度も満行している)をしていたでしょう。お寺にいるときに、信者さんが訪ねてきて、僕の顔を見るだけで帰っていくことがあったんだ。

せっかく山を登ってきてくれたのに、どうしたのかなあと思ったけれど、よく考えてみれば、信者さんはお経をあげてほしかったんだ。だけど僕が行をしているから、遠慮して言い出せなかったんだね。

4、5分でもお経をあげてやればよかったなあと、あとになって後悔したけど、信者さんのほうも心残りだったんじゃないのかな。

だから遠慮というのは、しないほうがいいんだよ。信者さんとしては「行者さんに無理をさせては悪いから、お願いはしないでおこう」と思うのだけど、無理かどうかは聞いてみなくちゃわからないよね。

大事なのは、とりあえず聞いてみることなんだ。悪いなと思ったら、相手から同じようなお願いをされたときに、嫌がらずにお返しをすればいい。直接その人にお返しできなくても、別の人に親切にしてあげたらいいじゃない。

お寺というところは、ふつうの学校と違って、手とり足とり教えてくれるということはないんだ。いっぺん教えてくれたら、二度と教えてくれないという約束がある。話を聞くときは真剣に聞きなさいということだけど、それでもわからないときは、先達の人に聞きにいく。

相手に「うるさい奴だな、しつこいな」と思われるくらい、いろんなことを質問する。それで初めて、ものになるんじゃないのかな。そのときに遠慮していたら駄目なんだ。

回峰行では40キロのけもの道みたいなところを歩くでしょう。道順や、あちこちにある礼拝場所を「手文」という紙に自分で書き写すことになっている。最初の1日だけは先達の阿闍梨さんが同行してくれるけど、次の日からは、手文を見ながらたった1人で歩かなくちゃいけないんだ。

1人で、しかも夜中に歩くから不安で不安でしょうがない。どうしても自信がないところは、やっぱり先達の人に聞くしかない。すると、1回だけは教えてくれる。遠慮していたら、ずっと間違えたままになるんだよ。

ほかのことでも同じだよ。遠慮をして言いたいことが言えないと、声が小さくなっちゃうでしょう? 大きな声で、遠慮をしないで朗らかに話すといいんだよ。

天台宗大阿闍梨
酒井雄哉
比叡山飯室谷不動堂長寿院住職。1926年、大阪府生まれ。夜学の慶應義塾商業学校を経て熊本県人吉の予科練に志願し、鹿児島県鹿屋の特攻隊基地で終戦を迎える。戦後は職を転々とし、40歳のときに仏門へ。著書に『一日一生』『「賢バカ」になっちゃいけないよ』など。
2度も満行した「千日回峰行」では山中を各回4万キロ歩いたほか断食断水・不眠不臥で9日間を過ごす「堂入り」も経験。包み込むような師の優しい言葉は、厳しい修行に裏打ちされている。