1993年11月7日――。鎌倉・鶴岡八幡宮から歩いて5分ほどの「岐れ路」バス停の前にあるコンビニの2階で、16坪の小さな店が産声をあげた。

「百貨店で買えば1万円以上はする」とアパレル関係者の誰もが太鼓判を押す高品質のワイシャツを、この創業時から税込価格5145円で販売し続け、前年度に約21億円の売上高を達成したメーカーズシャツ鎌倉の1号店だ。(※雑誌掲載当時)

しかし、鶴岡八幡宮の近くといっても観光ルートからは完全に外れ、住宅街のとば口といってもいい場所だ。創業者の貞末良雄会長は「手持ちの金は1300万円しかなく、人通りの多い場所に店を構えられない。人を雇う余裕もない。まさに“ないないづくし”の状態だった」という。だから、自宅から鎌倉駅まで毎朝通勤で乗るバスの中から見えた「事務所貸します」というコンビニの2階で我慢せざるをえなかったのだ。

当時、あるアパレル会社の立て直しを手伝っていた貞末会長は、店での販売を妻である民子社長一人に任せ、自分はシャツの企画・発注に専念。オープン当初こそ友人や知人がご祝儀の意味も含めて買いにきてくれたものの、それもすぐに途絶える。

「1日に3枚売れれば家賃が賄えるはず」であった計算は、「3日に1枚売れる程度」へ大きく狂う。普通の人なら夜逃げをしたくなる状況だが、貞末会長には微塵の迷いもなかった。

「前に読んだ本に『驚愕のマーケティング』という言葉があった。こんなにいいものが、この値段で買えるのかと驚くような商品をつくれば、事業は成功するという考え方だった。自分たちのシャツのよさわかってもらえれば、絶対に売れると信じていた」

そんな貞末会長の精神的支柱になったものが、60年代から70年代にかけて一世を風靡したヴァンヂャケットの生みの親・故石津謙介氏から送られた次の言葉である。

「私の門下生、貞末君夫妻がシャツショップを始めるという。そのシャツを彼が工場に立てこもって作り、彼女がそれを売るという。直接、お客様にだ。(中略)そんな難かしさに挑戦しようという、その心意気に私は大拍手をしたい。SPECIAL SHOPとはこんな哲学と自信から生まれるのだ。『メーカーズシャツ鎌倉』のお客様はそれを期待しているはずだ。きっと」

実は貞末会長は同社の元社員。78年4月の倒産時には統括本部長兼物流部長だった。その後、量販店やアパレル会社に移りながら、紳士服業界の衰退を嘆き悲しむ石津氏の思いに応えようと模索する。そこで行き着いたのが、米国のカジュアル衣料大手のGAPが取り組んでいたSPA(製造小売業)の手法を、男性のスタイルを決めるキーアイテムのワイシャツに応用して「年間30万枚売る店をつくる」という夢である。

とはいえ、シャツなくして商売はできない。それも肌触りのよい綿100%の生地を、見た目が美しくほつれにくい巻き伏せ本縫いで縫製し、光沢のある貝ボタンを使用しながら、販売価格は5145円という“驚愕”のシャツが。

付き合いのあった縫製会社に打診すると「そんな価格で利が取れるわけがない。第一、生地がなければ縫製のしようがない」と一笑される。そこで貞末会長は生地の一大産地である兵庫・西脇の有力業者を訪ねる。そして、メーター当たり800円が相場だった生地を、業界では異例の現金取引を条件に半値の400円で調達することに成功する。

このときに発注したのは1色・1800メートルを5色分。ここから4500着分のシャツが作れたのだが、16坪の店にはとても入り切らない。結局、縫製メーカーには1500着分だけ依頼し、後は預かってもらった。しかし、次回の縫製の発注がいつになるのか皆目見当もつかなかった。

花形営業マンから倉庫係へ配置転換

貞末会長に取材していると、後ろ向きな話が一切出てこない。

「どんな苦労が」と尋ねても、楽しい思い出話として答えが返ってくるだけ。なぜか。年間30万枚売る夢を聞かされ続けてきた縫製大手のウィンスロップの福田三根生会長は、「貞末さんのすごい点は『待てる』こと。広島の実家が衣料品店を営み、お客さまを待ち続ける商人のDNAを受け継いでいるのではないか」と語る。

確かに衣料品店のような小売業は、どんなに広告宣伝を打っても客が店に来なければ、売り上げにはつながらない。ある意味で、待つことを宿命づけられたビジネスだ。同様に画期的なシャツを作っても、消費者に認知されるまでには時間がかかる。貞末会長には、それを当たり前のように待てる天賦の才があるというのだ。

この“待ち”については面白いエピソードがある。66年、電機メーカー勤務を経て超人気企業であったヴァンヂャケットに入社した貞末会長は、すぐ花形の営業部へ配属された。しかし、前職が研究畑だったこともあり、スタイルには無頓着。本人いわく「魔法使いのような格好だった」そうで、「外に出せない」と2日間で営業部をクビになる。次に配属されたのが商品管理部。要は倉庫係の仕事である。貞末会長はまだ20代半ば。普通の若者なら腐ってしまう。

しかし、貞末会長はチャンスを待ち続けた。すると、単なる商品の出し入れを行う保管機能しかない部署であることに気づく。そして、出荷数に基づきながら売り上げ管理したり、売掛金の回収状況に応じた出荷管理をコンピュータ上で行う「オーダー・エントリー・システム」を開発したことで、次第に“石津門下生”として、その存在が社内外で認められていく。余談だが、このシステムは後に業界内の物流システムのスタンダードとなる。

話をメーカーズシャツ鎌倉に戻そう。貞末会長の“待ち”は創業の翌年春に見事に実を結ぶ。民子社長の投稿が人気女性誌「Hanako」の編集者の目にとまり、同誌の鎌倉特集のなかで紹介されたことを契機に客足が伸び始めたのだ。そして、「通常の高級シャツの原価率15~18%に対して、当社のそれは約60%」(貞末会長)というコストパフォーマンスの高さに魅了された顧客が増えていく。

その後、95年7月の横浜ランドマーク店オープンを皮切りに、東京、神奈川で次々に直営店を出店。いまでは12店舗を数える。その一つである丸の内丸ビル店は、09年12月に坪当たりの月商が427万円という新レコードをたたき出した。ショッピングモールの損益分岐点は通常同30万円というから、その繁盛ぶりがうかがわれる。

そして貞末会長は「今年度は60万枚売りたい」という。前出のウィンスロップの福田会長も「ここまで成長するとは」と感慨深げだ。ちなみに1号店は96年11月に欧風の店構えの鎌倉本店としてリニューアルオープンしている。

消費不況で小売業界には閉塞感が漂っているが、貞末会長は「変化からイノベーションを生み出さないと。それには、現場に出て変化を掴むことが何よりも大切だ」と強調する。自らそれを実践することで、石津氏のいう「哲学と自信」に磨きをかけ続けている貞末会長だからこそ発せられる言葉なのだろう。

※すべて雑誌掲載当時