MITでの学生時代、大前さんはその人生で初めて授業を真面目に受けたという。趣味の音楽を優先し「授業は適当に」を通してきた日本時代とは違うプレッシャー。大前さんの「学び方、考え方」は、ボストンの地で大きく変わろうとしていた。

オッパイTシャツに大笑い

MITに入学してすぐに指導教授に挨拶に行った。原子炉の安全性に関する確率論の専門家であるノーマン・ラムルッセン教授は、私が着ていたTシャツを見ていきなり大笑いした。

Tシャツには母校東工大(Tokyo Institute of Technology)の頭文字「TIT」がプリントされていた。アメリカでは俗語でオッパイのことを「ティッツ(tits)」というのだとそのときに初めて教わった。

「お前の学校はなかなかユーモアがある。そのTシャツ、くれないか」と誰が見たって私のTシャツが入るわけがない大男の教授にせがまれた。指導教授のジョークでリラックスできて、カルチャーショックは3日目で解消した。

当時のMITには私よりも先に入学した日本人が5~6人いた。新入生のクラスでは日本人は私1人。フカイさんという日系ブラジル人が1人いたが、日本語は全く話せなかった。

クラスの半分はアメリカ人で、その他、ヨーロッパ、カナダ、中南米など世界中からやってきていた。原子力が次世代エネルギーの花形として脚光を浴び始めた時代に、世界最先端の原子力工学を食らい尽くそうと集まってくるのだから、相当な俊英揃いである。

スイスからきていたハンス・ヴィドマーは、こっちは単に暗記しているだけのマクスウェルの電磁方程式を完璧に理解していて、そこからベクトル演算をして答えを出すという難題をいとも簡単にやってのけた。「すべての答えは電磁方程式から導き出される」などと超然と言い放つ。アインシュタインが同級生だったらこんな感じだろうかと思った。彼とはその後アパートを一緒に借りて住むことになったが、さらに驚いたのは帰国後日立を経て入社したマッキンゼーにちゃっかり私より早く入社していて、再会したのだ。いまでもこの天才とは家族ぐるみの友人だ。

アメリカ人のフレデリクソンはハンサムで女にモテた。金曜日、土曜日は女の子と遊び放題。しばらく姿が見えないと思ったら、女連れでブラジルにリオのカーニバルを見に行っていたなんてことがよくあった。しかし成績抜群で試験はいつもトップ。いわゆるアメリカ型秀才の典型で、勉強している姿を人前では見せない。先生からも一目置かれていた。

一番仲良かったのはビル・コーコランといういかつい海軍将校である。すでに30代半ばで美貌の奥さんと子供がいて、ニューイングランドの森の中の高級住宅に住んでいた。「メシ食いに来い」とよく誘ってくれたが、奨学金で食いつないでいる貧乏学生には涎ダラダラの生活ぶりだった。やはり将校上がりはすごい!と思ったものだ。

「やるっきゃねえ」という覚悟

出身も年齢もバラバラ、ごった煮のようなクラスで仕切り屋を務める一方で、悪い癖がすぐに出てMITのオーケストラに入った。これがまたレベルが高い。入った途端にオハイオ州まで演奏旅行、そしてしばらくしたらあのカーネギーホールで演奏会である。先輩方の寄付が集まるから、演奏旅行も信じられないくらいに贅沢だった。音楽生活も充実していて毎週木曜日にはボストン交響楽団の演奏会があった。当時はシャルル・ミンシュが常任指揮者であったが、カナダでトロント交響楽団の音楽監督をしていた小沢征璽さんもよくボストンに来て指揮を執っていた。

それから女の子である。MITの男子学生だけではオーケストラは成り立たない。足りない楽器はボストン界隈の女子校から集めるのが慣わしになっていた。ウェルズレイ大学(米東部の名門女子大学群、セブンシスターズの1つ。米ヒラリー国務長官の出身校)やニューイングランド音楽院、ボストン大学の音楽部などから、ヴァイオリンやらオーボエやらフルートやら女の子を呼んでくるから、もう楽しい。これは熱が入った。

英語が苦手な留学生は引っ込み思案になってクラスに溶け込めず、落伍していく。よくある話だ。しかし、私の場合、通訳案内業で稼ぎまくっていたし、集団の仕切り方も学んだ。好きで音楽の修業も積んできた。日本で蓄積した経験が全部プラスに作用した瞬間である。もちろん、単身アメリカに乗り込んで「やるっきゃねえ」という覚悟もあった。積極的に発言してクラスをまとめて、授業でも前のほうに座って必ず質問した。

日本では「授業は適当に」がモットーだったが、MITの授業はマジメに受けた。卒業後10年くらいの間は、「授業に出ないと卒業できないぞ」と先生から怒られる夢を時々見たくらいだから、意識はしていなくてもどこかでプレッシャーを感じていたのだろう。