大学時代に大前さんは原子力の独学を始めた。本格的に学ぼうと「ここじゃなきゃダメなんです」と大学院の門を叩く。東京オリンピックの翌年、まだ日本の原子力研究は揺籃期だった。

出席率50.1%(代返込み)

大学3年からの専門教育では無機化学を専攻した。当時は石油化学万能の時代だからクラスの八割くらいは有機化学を選択したが、私は天邪鬼だったし、有機化学の未来に光が感じられなかった。

表向きは酸化物の研究をするために無機化学を選んだ。しかし本当に関心があったのは「石油を燃やさないで済むようにするにはどうしたらいいか」である。大学には原子力のゲの字もなかったから、応用化学科にいながら一人で原子炉の勉強をしていた。

大学2年から4年まで独学で勉強してある程度理解できようになり、あとは大学院で本格的に研究しようと決めた。

就職する必要はなかった。大学2年のときに通訳案内業(現在は通訳案内士)の国家資格を取って通訳案内(ガイド)のアルバイトで稼いでいたからだ。新車のブルーバードが即金で買えるくらい超リッチな学生だった。

大学院に進んだのが1965年(昭和40年)だから、受験したのは東京オリンピックの年である。当時、日本で原子力をやっている大学は数が少なく、東京大学、京都大学、東京工業大学などが主なところだった。東工大は1957年から理工学研究科に原子核工学の専攻コースが設置されていたし、実験用の原子炉も持っていたのでそこに行くことを決めた。

このときばかりは真面目に受験勉強して、東工大の大学院に進んだ。おかげで大学院の全受験者の中で二番目の成績だった、と言われた。「こういう成績の人は、普通は機械工学とか電子工学に行くんです。あなたは本当にここでいいんですか」と原子核工学の先生から念を押されたほどだ。「独学で原子力を勉強してきました。ここじゃなきゃダメなんです」と返事をしたらいたく喜ばれた。

だからといって東工大に入って生活のスタイルが変わるわけではない。東工大や芥川也寸志の新交響楽団などのオーケストラとガイドの仕事に精を出して、授業は適当に、という感じである。早稲田のときもまったく同じ。「卒業に必要な出席日数が足りない」と言われて最後に毎日授業に出まくって、かろうじて出席率50.1%(代返込み)で卒業している。

先般、早稲田の白井克彦総長にその話をしたら、「そんなこと他所で言わないでくださいよ。今は出席率七割ないと卒業できないんですから」と釘を刺された。

「よし、MITに行こう」

大学院で原子炉の勉強をする日々は、それなりに身にはなったが、同時に物足りなさも覚えた。原子核工学といっても機械工学や化学工学の世界から寄せ集めてきた先生ばかりで、原子炉のことを本当に知っている専門家は皆無に等しかった。原子炉の設計を教えている先生に「発電用の原子炉ってどれくらいの大きさですか?」と聞いても、「見たことがない」と言われる始末である。

原子炉設計の理論や方程式を机上で教えることはできても、方程式に数字を入れて計算したことがないから、現実に何が起こるのかわからない。それが日本の原子力工学の最先端の実力だった。

学校には臨界にならない実験用原子炉しかなかったから、夏休みになると茨城県の東海村に実習に出かけた。当時、東海原発で日本初の商業用原子炉が稼動を始めたばかりだった。原料に天然ウラン、減速材に黒鉛、冷却材に炭酸ガスを使う「コールダーホール改良型」と呼ばれるイギリス製の原子炉で、経済性や耐震性に問題があったことから現在は運転を停止し、廃炉作業が進められている。

大学院では原子炉の材料に関する研究をしていたが、原子力工学の総合的な知見については「群盲象を撫でる」ような印象は拭えなかった。突き詰めるためにどこか別のところに行くしかない。では世界トップクラスの原子力工学はどこかにあるかといえば、マサチューセッツ工科大学(MIT)の名前しか頭に浮かばなかった。

MITにはマンハッタン計画のときに「原子炉を設計していた」とか、「ウラン濃縮を担当していた」という科学者がそのまま流れ込んできていて、当時の原子力関係の教科書もほとんど彼らの手で書かれていた。

調べれば調べるほど原子力の総本山であることがわかってくる。「よし。MITに行こう」と決めた。