新ブランド失敗失意の左遷

42歳のときに、大きな挫折を経験した。自ら立案した独立ブランドの化粧品が売れず、左遷された。

その4年前の1985年、本社のデパート部から、新設されたブランド開発チームへ参加する。当時、米大手化粧品が皮膚医学の観点から生み出した独立ブランドのスキンケアが、各地のデパートで好評を博していた。「化粧品を科学する」というコンセプトと、「無香料でアレルギーテスト済み」という謳い文句が、高まりつつあった消費者の「安全・安心」への意識と合致した。資生堂も、デパートごとにみると、売り上げが抜かれるケースが続いた。

その化粧品の売り場は、ステンレスとガラスでできていて、清潔感があり、美容部員は看護婦のように白衣を着ていた。当時の日本勢のように「化粧水をつけ、乳液をつけ、クリームをつけて」という「足し算」の手法ではなく、「肌には、生まれながらの力がある。だから、汚れなどいろいろなものを取り去っていき、その力を引き出せばいい」と「引き算」を強調。肌の診断をコンピューターでやり、個々人のデータによって使い方を勧めていた。

販売第一線のデパート部にいただけに、新鮮さとともに脅威を感じ、機会がある度に「われわれも『資生堂』というブランドで単一の価値観を提供するだけでなく、複数ブランドによる『グループ』で成長を目指すべきだ。資生堂の名を付けないブランドをつくろう」と主張した。だが、従来型の販売手法で成功体験を持つ面々は、そんな新しい波に関心もみせない。それでも、繰り返し訴えているうちに、トップが頷いた。

チームは、5人で立ち上げた。つくりたかったのは、お客一人ひとりの「レシピ」にもとづく相談販売向けの新ブランド。化粧品は一見、多数の塊を対象にしているようだが、使う側のお客からみれば、すべて個別のニーズがある。しかも、それぞれには多様なTPOもある。太陽の下か室内か。パーティーの会場か小さなレストランか。TPO次第で、化粧品の選び方、使い方が変わって当然だ。「十人十色」を超えた「一人十色」が、目指す道だった。

勉強に、都内の東急ハンズへ行ってみた。家庭で必要な様々な用具をそろえている。だが、売り場に「売る人」はいない。でも、相談すればいろいろと「教えてくれる人」「手助けしてくれる人」はいる。包丁ならば、使い手ごとに合うように、どの長さや重さがいいのか持たせてみて、どこまで刃を出しておくのがいいか調整し、そのうえで「じゃあ、レジはあちらです。どうぞ」という具合だ。自分が目指していたところと、共通点が多かった。

東京・青山の高級スーパー紀ノ国屋ものぞいた。すると、オレンジ一つとっても、熟れ方、色、形、質などいろいろで、均一ではない。間口は狭くても、奥行きがある。ここでも、ヒントを得た。

新ブランドのコンセプトは「紀ノ国屋・ハンズ」だった。だが、上層部は取り合わない。「うちにも、安全性を追求した品はある。それで戦えないのは、お前たちがだらしないからだ」とにべもない。

当時、横浜に住んでいた。銀座の本社に、東海道線や横須賀線で通っていた。車窓からみえる広告塔は、同じようにみえても、多彩だ。「新ブランドを、どう差別化するか」と考え込む。寝るときも、思い浮かんだことを枕元に置いたメモ用紙に書き留める。気晴らしにプールへ行って、泳いでいるときも、仕事のことを考えてしまう。そんな日々が、約半年つづく。いまでは、そこまでのことはない。仕事と生活を、かなり切り分けられるようになった。でも、ビジネスパーソンの人生には、40代前半くらいに、そういうことが必ずある、と思う。「ワークライフバランス」が大事だが、それを超えざるを得ない一瞬もある。

悩みつづけていた間に、ライバルの脅威が上層部にも浸透したのだろうか、8度目に書いた提案書が通った。内容は、実は、最初に書いたものとほぼ同じだった。

部長に直訴「仕事を下さい」

86年、新ブランドに『イプサ』と命名し、それを扱う別会社を設立した。39歳。「ここで、骨を埋めてもいい」と、勇んで出向した。だが、売れ行きは計画を下回り、3年後だった黒字化の目標をずるずると書き換える。横並びの文化が色濃く残っていた日本で「自分だけ違う世界」へまで踏み込むお客は、まだ多くなかった。本社へ出向き、書き換えた計画を説明していたら、後ろの席から「何をやっているんだ。約束違反だ、リストラしろ」との声が飛んだ。結局、「本部の人数を思いっ切り絞れ。管理職が5、6人もいるのは、おかしい。少なくとも2人は飛ばせ」と決まる。その2人のうちの1人が、自分だった。

89年12月、本社の経営企画部へ戻る。中枢部門だが、部下もいないスタッフ課長だ。仕事はない。部長は「ほかの人の仕事を、よくみておきなさい」と言う。「左遷だ」と思った。定時出勤、定時退社の日々。みんなが仕事をしているのに、「じゃあ、お先に」というのは、辛かった。だんだん心が荒んでいき、ついに「会社を辞めよう」となる。

そんなとき、『イプサ』の開発時代に側面支援してくれた元上司から電話が入る。誘われて、居酒屋で飲んだ。いい機会だから、「会社を辞めます」と告げようと思っていたら、「おい、辞めるなよ」と先手を打たれた。状況を聞いてくれた後、「それなら、部長に『何か、仕事をくれ』と言ってみろ」と言われた。

離れたところからでも、自分のことをみていて、そこまで考えてくれている人がいたと思うと、うれしくて、吹っ切れた。翌日、部長がトイレへ行くのを追いかけて、「仕事を下さい」と直訴する。返事は「やっと、言ってきたか」だった。

すぐに、経営計画の策定チームへ参加した。厳しい仕事で、徹夜も多かったが、「仕事があることが、こんなに楽しいものか」と痛感する。

「天網恢恢、疎而不失」(天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして失わず)――是非曲直を正すために張り巡らされた天の網は大きくて、編み目が粗いようだが、何一つ逃すことはない。「疎にして漏らさず」とも言うが、意味は同じで、中国の古典『老子』にある言葉だ。「悪事は必ずばれる」という戒めだが、「辛い状況に置かれていても、真面目に取り組んでいれば、お天道様は必ずみている」という、不遇な人への励ましにも使われる。

47年2月、大阪の八尾市で生まれた。慶大文学部で4年生になったとき、大学の就職課へ行ってみた。当時は学生運動が盛んで、騒然とした世相。「平和産業へ就職したい」と考えていた。張り出された一枚の募集通知に、目が止まる。「資生堂 学部問わず」。他社の募集をみると、「経済学部、法学部、商学部」などとあり、自分の文学部は除かれていた。ふと、「資生堂は人を美しくすることが生業。まさに平和産業ではないか」と考え、応募した。

いまでも、元上司と飲んだ夜のことは、克明に覚えている。食べた料理一つ一つまで、浮かんでくる。以来、「あんな上司になりたい」と思ってきた。苦労している社員の話を耳にすると、「ああ、僕もそうだった」と思い、会う機会があれば、体験を話してあげる。会社の中では、誰のことでも、誰かはみている。そのことを、いまの時代、孤独感に包まれがちな若い社員たちに、教えてあげる仕組みが必要だ、と思う。

経営計画の策定などを手がけた後は、順調に「社内階段」を上っていく。96年6月に化粧品企画部長となる。全社でも、有数の花形ポストだ。だが、ここで、もう一度、ビジネス人生の大きな危機を迎えた。

40代が終わる直前だった。