「言行一致」というのは、処世や指導者の不朽の教えに他ならない。古今のビジネス書や自己啓発本を読んでも、「言行一致なくして成功なし」というのは共通する見解だろう。『列子』には、この観点について、とても面白い逸話が残されている。

燕(えん)という国の君主が、「不老不死」の術を知っている、という男に使者をやって、その秘訣を学ばせようとした。ところが、ぐずぐずしているうちに、何とその男が死んでしまったのだ。

怒った君主は、使者を死刑にしようとするが、ある家臣がこう口をはさんだ。

「人がもっとも恐ろしいと思うのは死ぬことですし、逆に願ってやまないのは生き続けることです。

ところが、不老不死を知っているという男自身、死んでしまったのです。そんな人間が、どうしてお殿様を死なないようになど、できましょう」

この諫言によって、使者は死刑を免れた。また、斉子という人物も、「不老不死」を学ぼうとしたら、教わるはずだった相手の訃報が届き、胸を叩いて嘆き悲しんだ。それを聞いた富子という人物、笑いながらこう言った。

「『不老不死』を学ぼうとしたのに、その師匠が死んでしまった。しかも、当人はそれを残念がっているという。結局、斉子は何を学ぼうとしていたのかさえ、わかってはいなかったのではないか」

話だけ読めば、燕の君主も、斉子も愚かだったとしか言えない内容かもしれない。しかし、実は同じような構図は、現代にも溢れ返っている面があるのだ。

たとえば、昨今の経済状況の激変によって、株価の先行きや、景気の予測を大幅に外してしまった経済評論家やアナリストも少なくない。

そんな人たちが、「財産を守る方法」「今後の景気予測」といった講演会を開くと、結構な数の聴衆が集まり、ありがたく教えを拝聴していたりする。

さらに、折からの不景気と活字離れで、書店や出版業界は斜陽化が進んでいる。

そんな状況のなかで「成功法則」やら「億万長者になる秘訣」といったテーマの本が大量に出版、販売され、実際そこそこ売れてもいる。

なぜ当事者たちさえ結果を出せていないノウハウの数々が、堂々と他人への教えとして流通できるのか。これでは、自分が実践できない不老不死の秘訣を、他人に教えるようなものではないのか……。

こうした現象を、愚かだ、と一言で切り捨ててしまうことも、もちろん可能だが、しかし、この段階で終わらないところに『列子』の真骨頂はある。

先ほどの話は、次のように続くのだ。

今度は、胡子という第4の人物が登場し、こう論評する。

「富子の言うことは間違っている。

人には、やり方を理解していても実践できないタイプがいるものだ。

衛という国に算術のうまい男がいた。亡くなる時、秘訣を息子に伝授した。息子はそれを一通り覚えたのだが、しかし、使いこなすことができなかった。

ところが、ある男が息子に秘訣を尋ね、息子が教えてやると、男は亡くなった父のように、それを使いこなしてみせた。同じように、死んでしまった人間が、不老不死の術を知らなかったなどと、どうして言えるだろうか」

ここで『列子』が言いたいのは、おそらく次のようなことだ。

人はみな、それぞれ長所と短所を持った存在だが、なかには「理屈」や「理論」の方は得意だが、「行動」や「実践」はさっぱりというタイプもいる。

そんなタイプに「行動」や「実践」の有無といった評価軸を当てて、信用度を測っても意味がないのではないか――。

「言行不一致」で何が悪い、これが弱者の味方、『列子』のスタンスなのだ。