「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人がいます。名前は佐々木友次。作家・演出家の鴻上尚史さんは、92歳の佐々木さんに5回会い、その証言を著書『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)にまとめました。鴻上さんは取材を通じ、「志願して死んでいった」という話は、特攻を「命令した側」の見方だったのではないか、と考えました――。

※本稿は、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)の第4章「特攻の実像」を一部再編集したものです。

「命令した側」が作り上げた特攻隊のイメージ

佐々木友次さんの人生を知ることは、特攻隊を理解していくことでもありました。

調べれば調べるほど、「特攻隊とはなんだったのか?」という質問は成立しないと考えるようになりました。

特攻隊は「命令した側」と「命令された側」があって、この両者をひとつにして「特攻隊とはなんだったのか?」と考えるのは無意味だと思うようになってきたのです。

「特攻隊は『志願』だったのか、『命令』だったのか?」という今も続く論争も、この二つの視点を明確にしなければ、意味がないと考えるようになりました(佐々木友次さん達『万朶隊』(※)は明確に「命令」でしたが)。

※編注:佐々木さんは日本陸軍の特攻隊『万朶隊』の第一回出撃隊に選ばれた。

『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。

英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。

それには、第2章で紹介した関行男大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。

深夜、寝ているところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井浅一中佐は、肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、

「『零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?』

と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。(中略)目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。―一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……

と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

『ぜひ、私にやらせてください』

すこしのよどみもない明瞭な口調であった」

陸軍の『万朶隊』のように、いきなり体当たりを命じられてはいません。

これを「志願」という人もいるかもしれません。けれど、厳しい階級社会の軍隊において、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか?」と言われて断るのは本当に難しいと思います。

ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜のやりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。

のちに、僧侶になった元副官の玉井氏が、関大尉の中学時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」と証言していたのです。

また、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀 文春文庫)には、同じことを猪口参謀が大西中将の副官だった門司親徳氏に戦後、話したと書かれています。

「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、できれば、明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。

そして、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。

これは、「志願」のふりをした「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。

『神風特別攻撃隊』の多数の欺瞞

『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。

初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。

「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成である。かれらは若い。(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」

ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。

「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」

玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。

反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、

「行くのか行かんのか!」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。

それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。

玉井副官は、その風景を見て「よし判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人社NF文庫)。

それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。

「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。

けれど、やはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、

「志願制を取るから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。

中島だけに分かるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います。

当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団指令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。

なぜ部下の内面に一歩も踏み込まないのか

『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。

酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやって下さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。

隊員達の状態は次のように描写されています。

「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とがからみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。

こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

死ぬことが前提の命令を出す指揮官が、「動揺するようである」という、どこか他人事と思われる推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。

猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。

どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。

けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦悩も見せないのです。それは、今読み返してみると、異常に感じます。

隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。

特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。

大西瀧治郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。

秘密裏に「回収」された隊員たちの遺書

2012年8月28日に放送されたNHK『クローズアップ現代』は奇妙な内容でした。海上自衛隊第一術科学校の倉庫の奥深くから大量の特攻隊員の遺書が見つかったことが始まりでした。

なぜここにあるのかと調べていくうちに、1949年(昭和24年)、特攻隊員の遺書を遺族から回収して歩いた男がいたことが分かります。男は、特務機関の一員だと名乗り、このことは口外しないようにと遺族達に言いました。もちろん、戦後ですから、もう特務機関などというものは存在しません。

集められた遺書は、1000通余り。2000近くの遺族を訪ね歩いていました。どうしても遺書を渡すのが嫌だと拒否した場合は、その場で書き写したそうです。けれど、多くの遺族は従いました。

発見された遺書を初めて見た遺族が番組で紹介されていました。両親が死に、遺書を渡していたことを知らず、初めて兄の自筆の遺書を見た妹でした。

60年以上、大切な遺書は倉庫の奥で忘れられていたのです。

遺書に押されていた「二復」の文字から、この男は海軍を事実上引き継ぐ組織である「第二復員省」から情報をもらって遺族を訪ね歩いていたと分かりました。

その男と頻繁にやりとりをしていたのが猪口力平でした。

なんのために遺書を集めたのか、何が目的だったのか。

1951年(昭和26年)、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた時に、『神風特別攻撃隊』は、その風潮に対抗するように出版されました。

この本の中には、特攻が現場の兵士達の熱望によって生まれ、出撃の志願者が後を絶たなかったということの裏付けとして、遺書7通が引用されています。

これらは、すべてこの時に回収された遺書でした。

猪口は、本の中で「海軍の特別攻撃隊員の慰霊巡拝のため、全国を行脚して歩いた篤行の士に、近江一郎という人があったが」と書き、彼が連絡、送付してくれたとして、遺書を紹介しています。「慰霊巡拝」の人物が、特務機関から来た、口外しないようにと遺族に言って回ったというのですから、不思議な話です。

番組に出た専門家は、どうしてこんなことが起こったのかという番組の問いに対して、こう考えを述べました。

この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。

その時、唯一、海軍としては軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があったのではないか。

なので、日本全国の遺族の手元に遺書があると、これは孫の代になっても、ひ孫の代になっても、自分の祖父は、曽祖父は、こういう形で死んだんだというのがずっと残る。海軍はそれがつらかったんじゃないか。

と、分析しています。

真相は闇の中です。

遺書に本当に書きたかったこと

本の中で紹介されている遺書は、「戦場における異常心理」などに支配されず、「意外なほどしずかな落着いた精神のたたずまい」が見られると猪口は解説しています。

けれど、遺書に本音が書けなかったことは、少し調べればすぐに分かります。

特攻が「志願」だったと強調する人は、特攻隊員の遺書や遺稿に溢れる「志願」「喜び」「熱意」を根拠にしますが、それは当時の状況を無視しすぎています。

『死にゆく二十歳の真情 神風特別攻撃隊員の手記』(読売新聞社)の著者、元特攻隊員の長峯良斉氏は「(遺書は)それが必ず他人(多くの場合は上官)の手を経て行くことを知っており、そこに(中略)『死にたくはないのだが……』などとは書けない」と書いています。

上官の目に触れなければ何を書くか。そのひとつの例が、『陸軍特別攻撃隊』の著者、高木俊朗氏が執筆を依頼し、軍部の目を盗んで直接遺族に届けることができた、上原良司氏の「所感」です。

明日出撃する『振武隊』の中にいた上原の表情があまりにも思い詰めた様子なので、高木氏は「君、ちょっと何か書いてくれ」と紙と鉛筆を渡します。

慶応大学から学徒動員で特攻隊員になった22歳の上原が、この時書いた文章は、『きけわだつみのこえ』の冒頭に収録されて、とても有名になりました。

上原氏は「自由の勝利は明白な事だ」「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家(日本・ドイツ・イタリア三国同盟の諸国)において見る事が出来ると思います」と書くのです。

特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬ、自殺者とでもいうか、精神の国、日本においてのみ見られる事と書いた後に、「こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」と、苦悩と思考の流れを吐露しているのです。

所感の冒頭は、陸軍特別攻撃隊に選ばれたことを「身の光栄これに過ぐるものなき」と書き、終わり近くは「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」としました。

黙殺された「命令された側」の言葉

上原氏の言葉は、猪口・中島が決して聞こうとしなかったものだと思います。『神風特別攻撃隊』という本は、徹底的に「命令した側」の視点で、特攻隊を世界的に広めたのです。

ちなみに、猪口力平と中島正は、それぞれ昭和の終わりと平成まで生き、80歳と86歳で亡くなりました。

鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)
作家・演出家。1958年愛媛県生まれ。早稲田大学在学中の81年に劇団「第三舞台」を結成。87年「朝日のような夕日をつれて’87」で紀伊國屋演劇賞団体賞、95年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞。10年に戯曲集「グローブ・ジャングル」で第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。舞台公演のかたわら、エッセイや演劇関連の著書も多く、ラジオ、テレビ、映画監督など幅広く活動。日本劇作家協会会長。