NHKラジオの長寿番組「実践ビジネス英語」。前身の番組が始まったのは1987年で、30年以上つづく最長寿人気番組だ。当初から講師を務める杉田敏さんは、「ビジネス英語というジャンルはない」という。それでは杉田さんが解説してきたのは、どんな英語なのだろうか。イーオンの三宅義和社長が聞いた――。(前編、全2回)

「同時翻訳」で英字新聞の記事を書く

【三宅義和・イーオン社長】杉田敏さんはNHKラジオ「実践ビジネス英語」の講師で、ファンも大勢います。番組がスタートしたのは1987年、国鉄が民営化されてJRに名前を変えた年です。最初は「やさしいビジネス英語」というタイトルでした。私は、その2年前からイーオンに勤務していて、番組のスタートに合わせてテキストを購入し、聴き始めました。ところが、全然やさしくない(笑)。

けれども、会話のシーンを読むだけで、何となく知的レベルが上がったという感覚がありました。とても洗練された英文だったからだと思います。その理由として、杉田さんが英字新聞の記者だったということは大きいでしょうね。

【杉田敏・NHKラジオ「実践ビジネス英語」講師】青山学院大学ではESSに籍を置き、ディベートに力を入れていました。討論のために、いろいろな調査をして、英語にまとめていくというプロセスが面白いわけです。それは新聞の記事を書くのと同じなんです。

最初の職場は、大学の先輩に誘われた朝日新聞の英字版「朝日イブニングニュース」。就職が決まった4年生の時からほぼ毎日出社し、記者会見に出たりインタビューを行い、署名記事も書かせてもらっていました。4年生の夏ぐらいには正社員になって、その年の冬のボーナスももらいました。

【三宅】それだけの実力があったからでしょうね。その時代の何かエピソードはありますか。

【杉田】夕刊紙なので、昼前後が記事の締め切りになります。そうすると、閣議後の官房長官の記者会見などで重要な発表があると、時間がありませんから、談話を耳で聞きながら、それをそのままタイプライターで英文の記事にしていきました。

この話を同時通訳者の國弘正雄さんにしたら「面白いね」と感心され、その頃はまだ、同時通訳も始まったばかりだったのですが、これは、いわば「同時翻訳」だという自負がありましたね。

【三宅】それはすごい。その後、アメリカに渡られて、オハイオ州立大学ジャーナリズム学部の大学院で勉強をされています。

【杉田】私を「朝日イブニングニュース」に誘ってくれた先輩が、AP通信社に転職し、米国の大学に留学したことに強い刺激を受けました。

【三宅】しかも、修士課程を1年間で終えられた。

【杉田】普通は2年間です。最初、本場アメリカのジャーナリズムスクールに集まって来る学生というのは、みんな英語が得意で「われこそは」と自信にもあふれているはずだと考えていました。その人たちに交じってマスターを取るには3年ぐらいかなと思っていたんです。

幸いなことに私の場合、学費が免除され、月に300ドルの奨学金がもらえました。その代わり週20時間、教授に代わって調査や講義をしたり採点などの手伝いをするということになっていました。

ですから、学費の苦労はしなくてすんだのですが、すでに結婚していて長女もいました。早く卒業して、仕事を探さなければという気持ちもありました。ところが、修士論文を書けば、1年で卒業できることがわかりました。そこで、必死になって論文を仕上げたわけです。

NHKラジオ講座の講師に抜擢された理由

【三宅】その後はオハイオの地元紙「シンシナティ・ポスト」に就職されます。おそらく、同時翻訳の成果でしょうが、杉田さんが英文タイプを打っていると、アメリカ人記者が寄って来て「おー!」と驚きながら見つめていたそうですね。

【杉田】今はタイプライターも電動だし、ほとんどの記者はパソコンですから、もうかないませんが、当時は手動のタイプライターだったので、私より速くタイプを打つ人がいなかった。きっと「日本から来た日本人が、何でこんなに打てるんだ」とビックリしたのでしょう(笑)。

私はアメリカ人の同僚と2人で、経済面3ページを担当しました。シンシナティはP&Gの城下町でしたから、よく記者会見やインタビューに出かけたものです。自分で車を運転して取材に行くわけですが、そんなとき「俺もアメリカで新聞記者になれたな」という実感が湧いてきました。

ここでの経験が、後のキャリアにつながったと思っています。大学も経済学部でしたし、取材・編集の現場で実際の企業活動を目の当たりにし、「あらゆる現象はビジネスに通じている」と感じました。

【三宅】なるほど。「実践ビジネス英語」がビジネスマンに支持されているのは当然ですね。杉田さんは、ほどなくしてPRの世界に身を投じるのですが、記者として記事を書く側から記事を書いてもらう側になるわけです。コミュニケーションの取り方も変わると思うのですが。

【杉田】実際、私がいたジャーナリズム学部の卒業生は、半分が新聞や放送などのジャーナリズムに進み、残り半分が広告やPR関係に就職していました。

一方ではジャーナリストになり、片方ではPRマンになる。特にオハイオ州立大学の場合は、ジャーナリズム学部以外から卒業に必要な単位の3分の1を取ることになっていました。これはジャーナリストになるためには広い知識が求められるからですが、とてもいい経験でした。そんなこともあって、新聞社からPR会社に行っても、それほど大きな転身という感じはなかったのです。

【三宅】帰国後も、PRの分野でご活躍されている理由がわかりました。ところで、NHKのラジオ番組の講師になられたきっかけを教えてもらえますか。

【杉田】バーソン・マーステラというPR会社のニューヨーク本社に勤務し、85年からそこのクライアントである日本ゼネラルエレクトリック(GE)に取締役副社長として移籍したわけです。そこでは、人事と広報を担当しましたが、どちらもコミュニケーションは不可欠。日々の人間関係を通してスキルを磨きました。

その間、『戦略的ビジネス英会話』という本を書きました。私の2冊目の著作なのですが、まず「ビニェット」というミニドラマ的な会話シーンがあり、それに解説と単語・熟語の説明を加えるというものです。とにかく、クライアントが消費財や航空機のメーカーや保険会社、銀行と多種多様でした。彼らと一緒に仕事をしていたときの会話や職場での会話を臨場感があふれるように書いたつもりです。

そうしたらNHKの担当者から連絡があったのです。彼は、ビジネスマン向けの英会話番組を制作したいと考えていたようです。本屋に行って、書棚を見てみたら、私の本が目にとまり、一読されて「やりませんか」と声をかけてくれました。

リスナーが満足するユニークな番組づくり

【三宅】それが、毎回20分のテキストになった(現在は15分)。しかも、それが30年も続いているのですから、本当にすごい。長くひとつの仕事を継続する秘訣はなんでしょうか。

【杉田】2002年から04年に1年半中断しているんですが、再開の要望がたくさんあったと聞いています。またやるからには、よりいいものを作らなきゃいけない。リスナーが満足してくれるユニークな番組にしなければなりません。その姿勢がリスナーにも通じたということではないでしょうか。それに優秀なスタッフに恵まれたことも幸いでした。

【三宅】まさに、ビジネス最前線の情報が伝わってきます。しかも、オンビジネスとオフビジネスの場面があり、時代の動きとか米国の習慣まで理解できます。テキストに生かせる情報はどのようにして収集しているのですか。

【杉田】最近はアメリカのメディアをよく読んでいてUSA Today、The New York Times、The Wall Street Journalの3紙は欠かせません。今の時代に何がトレンドになっているかをつかみます。

一般の英語とまったく異なった形の「ビジネス英語」というものが存在するわけではありません。それに、この世の中にはビジネスにまったく関係のない事象はほとんどありません。教育、芸術、スポーツ、犯罪も、すべてお金がからんでいます。仕事の話(shoptalk)しかできない人は決して尊敬されません。広い意味での「ビジネス英語」は、社会の動きと密接な関係を持っています。

この番組を英語の世界への「窓」と考えて、それを開いて、ビジネスに関連したいろいろな場で起こっていることを吸収してみてください、とお願いしています。一見ビジネスとはあまり関連のなさそうなテーマも、知識として頭に入れておけばきっと役に立ちます。

【三宅】いずれにしても超長寿番組ですから、その間に何か面白いエピソードのようなものもあったと思います。杉田さんの印象に残っていることは何ですか。

【杉田】番組の初期の頃に、イギリスのある化粧品会社をモデルにストーリーを展開しました。1人のリスナーの女性が番組を通じて、その会社の考え方に非常に感銘し、その日本法人に就職したそうです。

その方から年賀状をもらったのですが、そこには「勤めてからも、ずっと番組を聴いています。職場でもう1人、先生のラジオを聴いている男性がいて、その人と職場結婚をし、子どもが生まれました。番組を聴いていなかったら、この子は生まれていません」とありました。小さなお子さんが写真に写っていましたが、その子ももう成人になってといると思います。